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金正恩2018年元旦,金正恩,五輪外交を開始!平昌五輪を大成功に導く.習近平が金正恩を超国賓待遇!金正恩が米朝首脳会談を提案,これをトランプが即断で受諾!金正恩,板門店から韓国に入り,南北首脳会談.大成功!トランプが5月中の米朝首脳会談を示唆.マティス国防長官が「駐韓米軍の撤退」を示唆!…まさしく激動の2018年だ.この激動の切っ掛けをつくり,激動をリードしてきたのは,金正恩(34)だ!今後も金正恩は世界をリードする!目が離せない.深い考察と議論が必要だ.(M部長・飯山一郎)
金正恩の真実 金王朝の“深い謎”ビビンバ!北朝鮮!
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日本の独立

1:通りすがり :

2010/02/01 (Mon) 08:48:09

host:*.plala.or.jp
やはり無理なのか。
小沢さんはこのまま潰されるのでしょうか。
日本は途上国の段階で終焉する?
613:この世は焼肉定食 :

2019/07/11 (Thu) 13:29:09

host:*.ocn.ne.jp

「日本では最近、わが国は、どう見られているのか?」

私は一瞬、躊躇しましたが、思い切って正直に答えました。
「最悪です。今年に入ってからも、核実験したりミサイル実験したり……」

「ロケットやミサイルを打ち上げるのは、アメリカのせいだ。
アメリカと交渉を始めると、すぐに無理難題を突きつけてくる。
アメリカとの関係は相変わらず険悪だが、私は戦争などする気はないのだ。
だからどこにも当たらないように(ミサイルを)打ち上げているではないか。
この私の発言は公開して構わないぞ」

・・・・・・・・・・・・・・・

(今、消息不明の)藤本健二(元金正日専属料理人)さんの書かれた2016年「週刊現代」の記事は、
金正恩氏から日本へのメッセージの様な物だったのだろうか?

面白くて面黒い・・・、もしかして北朝鮮式ソフト路線イメージアップの為のプロパガンダなのかな?
もし、この話が本当だとしたら、金正恩氏のメッセージは全然日本政府には通じなかったようだし…。
その何年か前には、元自衛官の方や、飯山一郎氏の書籍も世に出たけど、荒唐無稽と判断されたのかも?
やはりプライドの高いお堅いお役所は、正規のルートでなければ動かないのだろうね。
今の日本にとっては、何と言っても安倍総理&トランプ大統領の連係プレーの役割は大きい〜。
はたして…金正恩氏は来年あたりアメリカに行くのだろうか…? あの中国共産党の飛行機に乗って…!?

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金正恩の唯一の友人が明かす平壌「極秘会談3時間」の一部始終
「私は戦争などする気はないのだ」

個人が組織に勝つ時代になってきた。アメリカではトランプが国を変え、日本では藤本健二が日朝の扉を開ける。
「金正恩の唯一の友人」が安倍総理の親書を携え、拉致問題を解決する日は来るのか。

金正恩自ら迎えに来た

忘れもしない、4月1日のエイプリルフールの夜10時26分のことです。
箱根のホテルで調理師のアルバイトをしていた私のところに、北京のM氏(在日朝鮮人)から電話が入り、
「太陽節(4月15日の金日成〔キムイルソン〕誕生日)に平壌に招待したいから11日までに北京に来てほしい」
と言われました。

前回'12年7月に訪朝した時も、M氏からのメッセージで金正恩〔キムジョンウン〕最高司令官(第一書記)の
招待を受けたので、私は急いでパスポートを取得して、北京へ飛びました。
そして4月12日午後2時過ぎ、平壌順安空港に降り立ったのです。

約4年ぶりの訪朝でしたが、空港はすっかり新しくなっていて、迎えのベンツに乗って空港近くの招待所へ行きました。
そこで半時間ほど待つと電話が入り、「高麗ホテルの表玄関に行くように」と指示を受けました。

高麗ホテルは、'80年代に在日朝鮮人が建てた平壌の最高級ホテルで、私も'84年から'89年まで、このホテルの地下の
日本料理店で寿司を握っていました。

高麗ホテルの玄関口まで行き、そこで待機していると、一台の大型ベンツが、10mくらい向こうに停まりました。
助手席に座っているのは、長年私の秘書役を務めていた、懐かしい金チャンソン党中央秘書室副部長でした。

私は、運転席を見て仰天しました。何と、金正恩最高司令官が、自ら運転して、私の様子を見に来てくれたのです。

藤本健二氏は、1947年秋田県生まれの寿司職人。
'82年に北朝鮮にわたり、故金正日総書記の寵愛を受け、'01年に帰国するまで「金正日の料理人」を務めた。
金正恩第一書記とは、7歳から18歳まで(スイス留学時を除く)を共に過ごした。
世界で初めて金正恩の存在を明かし、後継者を予見したことでも知られる。
今年4月12日から23日まで訪朝し、前回'12年に引き続き、金正恩第一書記と会食した。

ベンツから金チャンソン副部長だけ降りて来て、私に命じました。

「ホテルの部屋へ上がって、シャワーを浴びて身体をきれいにし、ポケットに何も入れずに来い」

私は高麗ホテル25階に準備された部屋に向かい、40分かけて入念に風呂に入りました。
私は着ていた背広とワイシャツ3着しか持参していませんでした。

金正恩最高司令官と面会する時には、その前に、幹部専用の烽火〔ボンホア〕診療所へ行って、血液検査を始め、
精密な身体検査を受けねばなりません。
私は今回、最高司令官の「旧い友人」ということで、特別免除されたのでした。

1時間ほどして再び迎えの車が来て、私は懐かしい「金正恩官邸」に向かいました。
前回は「8番宴会場」で会食しましたが、今回は「72番宴会場」で、午後4時半から7時半まで、3時間に及びました。
私はそこで、約4年ぶりに金正恩最高司令官と再会を果たしたのです。


正恩の妹・与正も同席

「今回は急だったもので、みやげも持たず、すみません」

「分かっている。ご苦労。よく帰ってきた」

このような挨拶を交わしながら、最高司令官は前回と同様、力強く私の手を握り、続いて私を抱擁しました。
私は感極まって、涙がこぼれてきました。
日本では「130kgの肥満体」などと揶揄されていますが、抱擁した際に私の両手が彼の腰の後ろで組めましたし、
4年前と同様の体型に見えました。

続いて、やはり懐かしい妹の与正〔ヨジョン〕とも握手しました。中央党の制服に、フレアスカート姿でした。
「与正は、党宣伝煽動部の副部長に昇進したんだ」
最高司令官がこう説明してくれたので、「副部長昇進おめでとうございます」と言ったら、与正はややはにかんで
「ありがとう」と答えました。
日本や韓国では、28歳になった与正は崔竜海〔チェリョンへ〕書記の次男と結婚したとか、出産したとかいう説が
流れていますが、まだ独身と聞きました。

宴席には、前回は出席していた「大物」が二人、欠席でした。
一人は、'13年暮れに処刑された張成沢〔チャンソンテク〕党行政部長(故金正日総書記の妹婿)で、
張成沢の話題はタブーでした。

もう一人は、最高司令官の李雪主〔リソルジュ〕夫人です。最高司令官はこう弁明しました。
「娘('13年年初に生まれた主愛〔チュエ〕)がカゼを引いてしまってな。妻も娘と共に隔離されているんだ」
北朝鮮では、カゼを引いた人間は、治って10日経つまで、最高司令官の前には出られない決まりなのです。

こうして着席すると、最高司令官は太い声で言いました。
「もうこの中に知っている者は、いないだろう?」
テーブルには、計20人近くが着席していました。見知らぬ幹部たちや、与正のダンスの先生らだそうです。

私は金正恩最高司令官を前にしながら、「今回私を呼んだ目的は何だろう?」と、ずっと考えていました。
すると、そんな私の心情を察したかのように、最高司令官が私に質問してきました。

「日本では最近、わが国は、どう見られているのか?」

私は一瞬、躊躇しましたが、思い切って正直に答えました。
「最悪です。今年に入ってからも、核実験したりミサイル実験したり……」

「ロケットやミサイルを打ち上げるのは、アメリカのせいだ。
アメリカと交渉を始めると、すぐに無理難題を突きつけてくる。
アメリカとの関係は相変わらず険悪だが、私は戦争などする気はないのだ。
だからどこにも当たらないように(ミサイルを)打ち上げているではないか。
この私の発言は公開して構わないぞ」

「…………」

「ところで藤本は、政治家になったようだな」
「政治家」とは、どういうことでしょうか。
後から考えてみると、これまで寿司職人や幼少時の遊び相手として見てきた私に、
これからは日朝に関わる政治家としての仕事をしてほしい、という意味だと思うのです。
私が恐縮していると、半ばからかうような口調で、小声で私に告げました。
「でも、お前とは外交はしないぞ」
その言い方を聞いて、7歳8ヵ月の時から遊び相手をしてきた私には、ピンと来ました。

金正恩最高司令官は、朝鮮労働党大会を終えた後、日本との国交正常化を果たしたい。
両国間で懸案事項となっている拉致問題と植民地支配の問題を解決したい。
ところが最高司令官にとって、日本人で信じられるのは、私一人しかいないのです。
だから、私にやはり、日朝間の架け橋となって、ひと肌脱いでくれと言いたかったのではないでしょうか。
私は、「5月下旬に再訪朝します」と、最高司令官に約束しました。
当然、再訪朝したら金正恩最高司令官と直接会って、日朝の問題について胸襟を開いて話そうと思っています。


酒を控える金正恩

宴会の話に戻りましょう。
よく見ると、最高司令官の右側に、ニヤニヤしている男がいました。
崔竜海書記(故崔賢〔チェヒヨン〕国防相の次男)ではないですか。
崔竜海書記は昨年、失脚したと報道されましたが、健在でした。
私は崔竜海の豪華な自宅にも、まだ入居前に金正日総書記と共に訪れたことがありますし、かつては遊び仲間でした。
「本当に久しぶりだな」
崔書記は、そう言って笑っていました。
乾杯は、前回と同じく、最高司令官の好きな高級ボルドーワインでした。
しかし金正恩最高司令官は、グラスを飲み干そうとしません。
そこで私が最高司令官の前に進み出て乾杯のポーズを取ると、こう弁解しました。
「何日か前にボルドーワインを10本も空けたら、ちょっと胃の調子が悪くなってな。まあ一杯くらいならいいだろう。
藤本も、今日は無理して飲まなくていいぞ」
その言葉に私は恐縮し、改めて謝罪しました。
前回は、11年ぶりに金正恩最高司令官と再会を果たしたため、私は緊張のあまり、フカヒレを数口しか口にできず、
その間酒を呷り続けました。
そのせいで酔っ払って、会食の最中から寝てしまい、気がついたらホテルのベッドの中にいたのです。
「そんなことはもういい。過去のことだ」
今回は、ほどほどにボルドーワインをいただき、あとはすっかりおいしくなった平壌焼酎を飲みました。

金正恩最高司令官は、私の身の上を案じて言いました。
「藤本がたびたび送ってくれる手紙は、すべて読んでいる。箱根のホテルでコックとして働いていたそうだな。
早朝5時に起きる苦労なんかしないで、早くまた平壌へ来て、仕事すればいいではないか」
「はい。私は'80年代に高麗ホテル地下の日本レストランで寿司職人をしていましたし、あそこでラーメン屋をやりたく思います」
「高麗ホテルなんかもう古いぞ。オレが平壌に作った未来科学者通りを見て来い。今年は黎明通りも整備する。
それらを明日から金チャンソンが案内するから、そちらへラーメン屋を出せばよい。
オレは平壌でいろんなものを建設したから、今回全部見ておけ」
「承知しました。どこにラーメン屋をオープンするにしても、最初の客は、(金正恩)大将と夫人、お嬢さんですからね」

「それは分かったよ。でも、これからわが国と日本との国交が結ばれたら、藤本も忙しくなるぞ。お前の娘は、朝日間の架け橋になったらよい。
そう言えば、厳正女〔オムジョンニョ〕と娘も、いまからここへ呼ぶか?」

「いえ、今晩から会えますので大丈夫です」
私は'89年に、金正日総書記が仲人を務めてくれて、当時国民的歌手だった厳正女(48歳)と結婚。
娘の厳正美〔オムジョンミ〕(24歳)がいます。娘は平壌の会計学校を出たばかりです。


次回は安倍親書を持参する

この日のメニューは、フレンチでした。
冷野菜、コンソメスープ、タラの焼き魚、メインディッシュは中華風のとろみ肉で、最後に甘いケーキとマスクメロンが出ました。
金正恩最高司令官の胃の調子を考えたのでしょう。好物であるステーキは出ませんでした。

会食中、金正恩最高司令官と、懐かしい思い出話に花を咲かせました。
一緒にテニスやバスケットをして遊んだり、私が歌を唱ってあげたり、芸をやって盛り上げたりした話です。
そうして、3時間が瞬く間に過ぎて行きました。

平壌では5月6日から、36年ぶりとなる第7回朝鮮労働党大会が始まりました。
幹部人事と党政府機構を一新して、北朝鮮は名実ともに金正恩時代を迎えたのです。
この重要な党大会を経て、金正恩最高司令官は、日本との関係改善に乗り出したいと考えています。
今回、私を平壌に招待したのも、その一環と言えます。

次回5月下旬に訪朝する際には、ぜひとも安倍晋三総理の親書を携えていきたいというのが私の希望です。
そして日本が北朝鮮との国交正常化に本気なのだという証しを、金正恩最高司令官に示したい。

あの国はトップの意向がすべてなので、トップさえヤル気になれば、日朝関係は一夜にして好転するのです。
その次に訪朝する時は、安倍総理と私とで、日本政府専用機に乗って行きましょう。

拉致被害者の人たちは、最低5人は生きているはずです。
彼らを全員、政府専用機に乗せて、日本へ連れて帰ろうではありませんか。

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