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金正恩の真実 金王朝の“深い謎”ビビンバ!北朝鮮!
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ツランという絆

1:サムライ:

2011/01/29 (Sat) 15:03:26

host:*.t-com.ne.jp
有線LANを捨てられない、“引き籠もり族”のサムライです(苦笑)。

さて、習近平副主席が2010年10月19日、党中央軍事委員会副主席になったことにより、胡錦濤国家主の後継者となることが、表向きには確定したわけですが、実際には1年ほど前に行われた、今上陛下との2009年12月15日の拝謁により、事実上の次期中国の最高指導者になることが確定したことは、飯山さんの仰せの通りだと思います。このあたりについて、某国際ジャーナリストが、小生に対して以下のように語っていました。

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2009年12月15日に天皇陛下に中国の習近平国家副主席が面会。過去の慣例からも分かるように、中国の主席を指名してきたのが天皇である。これで、次の主席が習近平と決まった。また、今回の小沢一郎と羽毛田長官の対立であるが、長官と雖もあくまでも羽毛田は行政府の一職員に過ぎない。だから、小沢一郎を批判するのであれば、辞めてから批判を行うのが筋である。羽毛田の長州も天皇を玉として使った過去を思い出すべきだ。
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それから、数日前の『金王朝の深い謎』の中で遂にツランが登場、ツランの秘儀に関するお話を楽しみにしております。なお、ツランに関しては拙ブログでも取り上げています。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2010/03/post-f66f.html
ツランという絆

ともあれ、今年は来年に起こる大異変の予兆が、世界至る所で出てくると思います。そのあたりは今年の歌会始の儀においても、隠されたメッセージとして出されており、「あけぼのすぎ」と題して拙ブログにも解説文を書きました。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2011/01/post-27a8.html
あけぼのすぎ
153:サムライ:

2012/03/11 (Sun) 10:08:19

host:*.t-com.ne.jp
最初に、ひろみさん残念でした、シッチンが出てくる記事を書いたのは天童さんではありません。

> 私の疑問は、シュメールとツランとフェニキアとの関係なんです。
> 関係があるような気がするのですが、どうなんでしょう?
> そうなると、フェニキアーカルタゴーヴェネツィアの「黒い貴族」という存在は、果たして悪の存在といえるのかどうか・・・。

ここで簡単に回答を言うと、フェニキア=カルタゴですが、フェニキア=黒い貴族ではありません。このあたりは、十分な背景を説明しないと分かって貰えないので、いずれ記事にしたいとは思っています。


ホレジロウさん、今回も面白い記事を最後の方に転載しておきます。コーユー記事が読みたいんだけどというリクエストがあれば、お知らせください。


馬之助さん、

> シュメールとツランの結び付きをさかのぼると、ここまで来てしまうのですか。ちょっと面食らう気もしますが、シッチン、二ビル、アヌンナキなどの情報はどこかで読んだことはあります。しかし、書籍にあたったことまではないのですが、それが『みち』の記事になっているとは。

シッチンの本は読んだことがありますが、小生は信じていません。寧ろ、シッチンをしてあのような本を書かせた背景を知りたいと思っています。だから、なぜシッチンのような情報を赤不動さんは『みち』に載せたのかは小生も疑問ですが、そうした点を除けば面白いツラン記事だと思います。


> まあ、三人目も大学が決まり、

そうですか、合格、誠におめでとうございます。お父さんも肩の荷が下りた…!


> ただ、ここで黒い貴族がどこに位置し、我が天皇がどのような役割を得ていられるのか

このあたりは、ひろみさんにも語ったように、いずれ拙ブログで記事にしたいと思います。忘れていたら指摘してください。


> 「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。…」

自分は何者で何処から来たのか、つまり己れの生琉里を知ることにより、大地に根が生えたような思想・哲学というか、自身の立ち処が確実に定まるようになり、これは強いです。そうなると、今までは五里霧中だったのが、一気に霧が晴れたような気分になるはずです。


> また、紀野氏は、ただ読んだってわからない、声に出して読まなくては響いてはこない、といっています。

ここに音読と大切さがあるのだと思います。そこで、本日の記事です。
_________
古事記の讀み方

▼古事記を讀みたいと思つてゐる人がゐるに違ひない。讀みたいと思ふほどでなくても、讀んでみようか、讀まなくてはいけないと思つてゐる人はゐるだらう。とりあへずは口語譯とか解説本の類ひを買つてくるか、勉強會でもあれば出てみようかと思ふ。
口語譯は實にいろいろなものが出てゐる。漫畫本も出てゐるが、これは御勸めできない。全くといつていいほど内容を變へてしまつて、よくまあ「古事記」などと銘打つたものだと思はれる駄本が出囘つてゐる。口語譯は昔から今日まで、名のある作家や學者が手掛けたものも市販され、なかには版を累ねたものもある。だが、いかに名譯 と稱されやうとも、物語の筋をたどることは出來ても、古事記を讀んだことにはならない。あくまでも原文を讀まなくては、古事記を讀んだとは言へない。
幸なことに、古事記は原文は漢字で表記されてゐるが、讀み下し文を收録した文庫本が何種類も出てゐる。そこでまた頭を惱ませることが出て來る。どの文庫のがよいかといふことである。
▼實は、嚴密に校訂された漢字書きの原文を使用しても、その讀みは人によつて異なるのである。どこに、どのやうな讀みが行はれるかは學者によつて説がいろいろある。幾通りもの讀み方を事細く併記したテキストまで出てゐるほどである。
獨斷と偏見を恐れずに言へば、私が御勸めするのは、戰前の岩波文庫本の幸田(こうだ)成友(しげとも)校訂の『古事記』である。これは昭和二年初版で、昭和十五年には改訂第五刷が發行されてゐる。全文、讀み下しで、總振り假名つきだが、解題は短く改定版凡例も簡潔である。ただし、戰後の岩波文庫本は採らない。岩波文庫では、戰前刊行された古典を、戰後も再發賣してゐるが、とりわけ解説・解題の部分は注意が肝要である。大抵は新たに書き直されてゐるが、しばしば水で割つたやうな内容になつてゐることがある。古事記はあくまでも、戰前の幸田成友博士校訂のものに限る。
もちろんこの版は古書店でなければ入手できない。御勸めしたいのは、この版を入手して、擴大コピー(B5判)にすることだ。振り假名もはつきり讀めるし、書込みも自由だ。兩面コピーにして擴大まるごとコピー本にしてをくとよい。この場合、卷頭の漢文の「序」を落さないこと。
▼さて、一應テキストは決つた。古事記は、撰者・太安萬侶の序と、上・中・下の三卷の本文で構成されてゐる。おもむろに頁を開く。最初に目に入るのは、見慣れない文章の「序」である。普通は、何をどう讀んだらいいのか戸惑ふだらう。この難解と見える部分を讀むのは後囘しにしたくもなるだらう。ただし、かういふ話があるといふことは記憶に留めて置いていただきたい。
戰前から戰後にかけて國語國文學の泰斗であつた山田孝雄先生の話である。
山田先生はもちろん古事記については研究はしていて、いづれ自分の研究を著述に殘して置かうとは思つてゐた。だが、人前で古事記の講義をしやうといふことは全く考へてゐなかつた。ところが、神皇正統記についての著述を出版した直後のことだつた。ある學者、その人は古事記を專門に研究したといつてもよい人だつたが、その人が山田先生にかう言つたといふのである。
「神皇正統記を讀むと、日本の國體といふものが誠によく分りますけど、古事記を讀んでみましても、ちつとも國體は分りませぬな」
これを聞いて、山田先生は驚いた。
「そこで私の眼で見ますと、謂はば古事記と云ふものは徹頭徹尾國體を書いてある本であります。結局國體の爲に古事記がでて居ると思ふ位の書物でありますに拘はらず、それを讀んで見ても國體は分らぬと云ふ風に古事記を研究して居たものと見えます。而もそれは最高學府での研究を通つて來た人なのであります。それで私が古事記のことをあちこちで御話すると云ふことが實は生じて參つた譯であります」(山田孝雄『古事記概説』、昭和十五年、中央公論社)
▼古事記は文學であると云ふ人がゐる。神話を書いたものだと云ふ人がゐて、歴史を書いたものだと云ふ人がゐる。一應「御尤も」なのだが、それだけではないのである。今の流行りである多數決で行くと、文學・神話・歴史のどれも絶對多數を獲得することはできないのである。
それでは何か。實は「序」を讀むと、古事記の梗概も精神も分る、と云ふのが山田先生の説である。
▼で、いきなり本文から讀むか、「序」から讀むかはあなたの選擇にまかせるとして、總振り假名付きのテキストを開いたとしても、あなたはまだ讀めないかも知れない。注釋本が必要だと思ふだらう。確かに注解本は必要だらう。だが、それは旅行案内のやうなものだ。道がずっと續いてゐるのに「この先、行止り」と表示されてゐることがある。アテにしてはいけない。信頼してゐると、どこへ連れられて行くか、分らないものである。
▼では、どうしたらよいのか。音讀することである。聲に出して讀むことである。少々意味なんか分らなくてよろしい。理想は、少なくとも上卷、神代の卷を百囘、音讀することである。テキストは大體のところ、幾つかの段落に區切られてゐるから、一つの段落を五囘から十囘、繰り返し聲に出して讀む。これが唯一の古事記の讀み方である。
繰り返し音讀すると、口が言葉に付いてゆく。身體が古事記を捕へる。さうすると、始めは自覺しなくても、注解本のをかしい所や訓みの不自然な所に、何となく氣付くものである。注解本に讀まされるのではなく、あなた自身が讀み、他の意見は取捨選擇するだけでなく、あなた自身が「意味」を發見するやうになつて行くのである。これは「コトタマ(言靈)」の力である。江戸時代の寺子屋で行はれてゐた漢文の「素讀」の力である。これが唯一の讀み方だ。(赤不動)
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