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金正恩の真実 金王朝の“深い謎”ビビンバ!北朝鮮!
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馮太后と神功皇后

1:不動明王 :

2011/01/27 (Thu) 08:42:48

host:*.plala.or.jp
突然ですが、飯山さんの北魏の話は、魅力的です。だって『日本書紀』は『(北)魏書』をお手本にして作られた歴史書なんですから。背表紙(紙の折り目部分)の「魏書紀」表記も仰天です。日本書紀の「書」の存在も『(北)魏書』からきたのです(複数王朝の一つが「~書」です)。だから、「奈良の平城京は、北魏の平城京を真似て作られた」は肯けます。正史を真似るんですから、首都(名)も真似るは当然。元明・元正の元の話・・・となると「漢風諡号」を作った淡海三船はすごい人物。或いは当時の「常識」だったかも知れない。当然、その当時(8世紀後半)の「常識」に合わせて諡号していたはずだから。


北魏の馮太后と大周(唐)の則天武后。倭国の神功皇后と日本の持統天皇。この四人が結びついてくる。なぜ則天武后が近畿天皇家(持統天皇)を列島の代表と認めたかが見えてくる。しかも重要なのは、『日本書紀』が、唐も日本も同格だぞを暗に主張していることになることだ。当時の東アジアの中で唐に逆らって表だっては絶対に言えないことを暗ににおわせている。これは面白いことになってきた。俾弥呼(ひみか)と壹与(いちよ)の二人の事跡を一人の神功皇后に当てている。無理矢理、神功紀を定点にして仕上げている。こんなでっちあげまでして『日本書紀』を王朝の正史とした意味を考えたい。
15:飯山一郎 :

2011/02/02 (Wed) 12:40:01

host:*.ocn.ne.jp
不動明王さん
このスレの長さは何ですか? 京都宇治川の反物屋さんですか?
まぁEでしょう。

さて、難波・大阪。
http://grnba.com/iiyama/more3.html#TG0505
とにかく大阪は、今も百済です。

なにしろ、百済という超大国(660年の滅亡後、王族・貴族・
技術者・工人等百済人全員)が、ある突然…、
大挙して難波に上陸、百済国を再現したのですから…、
デカイのデカイの、巨大なんてもんじゃない…、
超巨大な大城市(大都市)が…、
アッ! という間に出現したワケです。

つまり…、
満州の超大国・百済国が、そっくりそのまま大阪の地に移ってきたワケです。
これは、遷都なんていう生やさしいもんじゃない!
遷国です、遷国! 読めますか? センコク! せんこく。
このことは…、
歴史学者とか考古学者などという専門バカの理解の範疇を、はるかに、
超えてます。
以上。飯山一郎。
14:不動明王 :

2011/02/02 (Wed) 06:34:43

host:*.plala.or.jp
市民Mさんとのやりとりを「改編」していました。なるべく目立たぬように、皆さんに迷惑ならぬようこっそり下の方で「改編」していたのです。飯山さんのことに及んでしまい、思い切って上に上げてみました。亀レスではありません。当方こそ隠れていて失礼しました。

飯山さんのお説に関わって難波宮が浮上してきますね。『日本書紀』孝徳2年12月「味経宮に2100余の僧尼を請せて、一切経を読ませて」います。味経宮は前期難波宮。2100人もの僧尼を読経させたというとんでもないでかい宮です。その後に造られた奈良明日香の板葺宮などは屁のようなもの。突出しています。近年の難波宮の発掘調査でもその豪勢さが分かってきています。全く突如、律令制を背景にした巨大な建物(群)が出現。歴史家はみんな困ってます。律令制はもっと後なのに。やっかいな宮です。突如の出現は飯山説に合います。天武2年3月「始めて一切経を川原寺に写したまふ」天武4年10月「使いを四方に遣わして、一切経を覓めしむ」後先が逆じゃないか。飯山説浮上。

大阪城・難波宮のあたりは南北7,800メートル。東西5,600メートルの台地。谷が入り組み、自然の要害地です。上町台地の北端に位置する守りやすく、攻めがたい要害地です。石山本願寺は信長も攻めあぐんだ場所。秀吉はその上に大阪城を築く。
13:飯山一郎 :

2011/02/01 (Tue) 21:42:40

host:*.ocn.ne.jp
不動明王さん
貴殿のスレ(ココ)、全く気づきませんでした。
このBBSは、使い勝手が悪いというか、不良エレベーターです。
遅蒔きながら亀レスします。
さて…、
1.先ず記紀の話。
記と紀は、全く別件で、完全に切り離して考えねばなりません。
とくに記には、真言(しんごん)とも、神言(しんげん)とも言うべき
言霊(ことだま)がやどっています。

紀は、型は中国の正史を模しましたが…、
紀の内容(コンテンツ)は、底本=種本があって、
『百済記』『百済新撰』『百済本記』(『三国史記』の「百済本記」とは同名異書)
です。

2.『日本国』建国と記紀の関係。
『日本国』は、天武が、百済→済州島→宮崎→志布志→難波→奈良
という経路を辿った末に建国しました。
建国後、記紀の編纂を命じました。
このとき、紀の底本は先述の三種の史書。

天武の日本建国まで、日本列島は幾多の豪族が群雄割拠する「古墳時代」。
古墳時代の日本は、弥生式農業大集落が散在する集落国家群列島でした。
城市、都市といえる街並みは何処にもなく、非常に遅れた、未開発の
うす汚い土民が住む後進国でした。
そこへ…、
白村江の後、大量の百済王族が日本列島に大挙来訪し、藤原京、平城京と…、
超巨大な城市国家を、アッという間につくってしまう。
ここに、日本は、古墳時代から最先端の都市国家に一気に変身したのでした。
こうして日本国は天武の御代となり、日本国の歴史が開始されました。
…ということは、天武以前の歴史は、すべて全部、満州にあった
百済や北燕や北魏といった扶余・鮮卑王朝の残像。
あたかも…、
米国史とは、メイフラワーが到着してからの歴史で、これ以前は…、
歴史がなかった!
同じように…、
日本史とは、天武が奈良に到着してからの歴史で、これ以前は…、
歴史がなかった!
と。
こんな簡単なことが分からず…、
天武以前にも歴史があった、とカン違いしてきたのが、
いままでの歴史学です。
…といった話を、これから『てげてげ』でやります。
4649!
飯山一郎。
12:不動明王 :

2011/02/01 (Tue) 20:30:27

host:*.plala.or.jp
「~書」は複数王朝の中の一つの王朝の歴史書を言います。

「~史」は時間的に存在した複数王朝の歴史書です。「北史」北魏・西魏・東魏・北斉・北周・隋の歴史。

「~志」は空間的に存在した複数王朝の歴史書です。「三国志」魏書・呉書・蜀書。

『日本書紀』は複数王朝の中の一つ「日本国」の歴史書。では「日本国」の前に何王朝があったというのか。本居宣長は「日本書紀」表記を嫌った。

『日本紀』は連綿と続いてきた一王朝の歴史書。『続日本紀』は自分より前の正史を『日本紀』と記す。『日本書紀』とは記していない。

ちなみに『続日本紀』は『古事記』の存在を全く無視している。なかったものにしている。『古事記』は室町期に偶然発見されたもの。だからそれまでは誰も名前も存在も知らなかったという歴史書だった。


11:市民M :

2011/01/30 (Sun) 16:55:08

host:*.ocn.ne.jp
不動明王様、野暮用で返事が遅れ申し訳ありません。
何か誤解がおありのようです。
私は、本名か市民Mのハンドルネーム以外で書き込みをしておりません。まして、いつも感心して読ませていただいている、不動明王さんの名を騙るような失礼なことはしません。また、私に飯山兄を妬んでいるという意識はありません。彼のバイタリティー、優秀な頭脳を尊敬しているのです。ただ、彼にはパソコン通信時代から、ネット上で時たま、普段の知的な人柄からは想像もできないほど攻撃的になり、過激に他人を罵倒し、嘲笑する性癖があるのです。今回は、私が年甲斐もなく、その挑発に乗ってしまったのです。不快な思いをさせてしまったのならお詫び申し上げます。
ついでですので、書かせてもらうと、私は古田武彦氏の日本古代史学の信奉者です。はじめて「邪馬台国はなかった」を読んだとき、「これで邪馬台(壱)国論争は終わった」と叫んだほどです。でも、新聞社として特定の学説に肩入れするなどはありえません。「朝日が変節した」とはどういう意味か理解できません。一般的にいうと、著者と編集者の関係の方が、著者と出版社とのつながりよりはるかに強いようです。編集者が勤め先を変えたので、作品の出版元を変えたという話はよく聞きます。ご説からは、米田さんが退社した後、出版部に古田氏の信頼を得られるような編集者が育たなかったということだと想像します。朝日の変節でなく、怠慢だと思います。
ご推察のように、私はすでに定年退職した身で、発奮するには遅すぎます。米田先輩のような立派な業績も全くなく恥じ入っております。読者の方からお叱りを受けるでしょうが、「会社に搾取された」というより、「会社を食い物にした」といった方が実感に近い記者生活でした。妻からも文句を言われていますが、加齢臭の方はご容赦ください。

10:不動明王 :

2011/01/30 (Sun) 05:43:44

host:*.plala.or.jp
『日本書紀』は『(北)魏書』をモデルとした。

①鮮卑が南下して長安と洛陽を占拠し、北魏を創建したとき、その初代は太祖道武帝であったが、当人以前の各代、すべて「~帝」と記した。日本書紀もまた、「701年」の文武天皇以前「神武~持統」を「~天皇」と記した。

②「魏書」の背表紙に「魏書紀」、「魏紀」と記している。『続日本紀』において『日本書紀』が『日本紀』と記されているのと、同じ。

③神話、説話も相類似。「鮮卑と魏・西晋との一大交流」と「神功皇后(倭国の女王)と魏・西晋との一大交流」。そして『日本書紀』は、その神功紀の「創出」を「編年の基点」としている。

『(北)魏書』の成立は、六世紀北斉(505~572)。

『日本書紀』の成立は、八世紀(720)。
9:不動明王 :

2011/01/29 (Sat) 21:01:04

host:*.plala.or.jp
二つの異質な「常識」がそれぞれに分かれてそれぞれのブログで頑張ればよいのですが、そんなにうまくはいきません。例えばこの雑談室は何でもありです。二分した「常識」が必ず激突します。当然罵倒が起きてきます。ま、それが私には楽しみなのですが。誤解も八戒もみんなありで楽しいのです。無人さんが市民Mさんであろうとなかろうとそんなことはどうでもいいことです。何でもありですから罵倒し合わないと面白くありません。罵倒がいやなら去ればいいだけです。失礼も欠礼もみんなありです。二つの「常識」のどちらかが勝つまで罵倒は続きます。朝日は変質したととる「常識」と変質していないととる「常識」の激突が起きてくるのです。古田史学の勉強会を運営してきた者にとっては、1993年の時点で朝日は変質したととらえています。変質の傾向は三部作の十年後からありました。その時点で朝日の購読をやめた人も多くいました。少数だった私達に世の「常識」が、もちろん二分した一方の「常識」が、近づいてきてくれています。朝日の購読をやめよう。既成のマスゴミを放逐しようという「常識」ができてきたのです。根本は「外国軍隊の駐留は、一切の理屈抜きに一度ご破算にしてチョーデー」です。「広島・長崎への原爆投下は人類最大最悪の殺戮。でっち上げの南京大虐殺・アウシュビッツを超えた大殺戮」ととらえるか否かです。あるいは、「何?それが根本?」と反応するか。「そうだ!それが根本だ!」と反応するかです。私が無人さんを売国奴呼ばわりするのは、彼の「常識」を揺さぶっているつもりなんです。飯山さんが市民Mさんに言われていることも同じです。過去の規範を捨てましょう。
8:不動明王 :

2011/01/29 (Sat) 20:57:55

host:*.plala.or.jp
かつて古田先生を囲んでの勉強会がありました。毎月の勉強会の紹介が朝日新聞を初め、各新聞に掲載されていました。1993年、古田先生に対して物理的抹殺が行われようとしました。幸い未遂に終わり、事なきを得ました。これを知る者は今では先生と私だけです。ちょうど、その頃から、朝日新聞社を初め、各新聞社は勉強会の案内を一切掲載しなくなりました。なぜですか。不思議ですね。偶然ですか。ンなことあるまい。誰かがその頃決意したんですよ。学問的にも、物理的にも「古田武彦はいなかった」ということにする決意を・・・、チャン、チャン、妄想混じりの回想でした。ンなことあるまい。

朝日新聞社主催の考古学展が計画されました。メインは古田先生持ち帰りの南米の出土物でした。計画が進むうちにメインが片隅に、そして最後には一切展示なしになり、朝日新聞社の担当者が涙ながらに古田先生に謝りました。「古田が出すなら協力しない」の或る筋からの恫喝に屈したのです。古田氏のニオイが全く無しの考古学展になりました。

歴史学主流派への朝日の屈服を変節と言うか、長いものに巻かれたと言うか、一つの学説に偏ることはよくないと上手に中立ぶってみせられたと言うか。結局、人によって取り方が違うなどとあいまいにされて知らん振りされました。不思議なことに、なぜかその知らん振りが当時の「常識」に通用しました。朝日に対する私達の怒りは圧倒的少数でした。

もちろん内倉さんのような方もおられました。今も大学セミナーへ参加してくださる現役の朝日新聞社の記者もおられます。復刻版の大々的宣伝が掲載されることもあります。

けれども、ともかく朝日はその当時の世の「常識」にうまく対応されました。知らん振りのあいまいな姿勢。そして、その姿勢は、その当時の「常識」に適合したのです。ところが最近はその「常識」に変化が起きてきました。「某国追従の奴隷根性認識」か「日本の独立認識」かに代表されるような異質な二つの「常識」に分裂してきました。今までの政治思想は通用しなくなってきました。左翼だの右翼だの、革新だの保守だのは、もう通用しなくなってきました。失礼ですが市民Mさんの認識は過去の規範そのままです。今までの「常識」がすでに変化している事に気づかれていません。


7:不動明王 :

2011/01/28 (Fri) 23:38:38

host:*.plala.or.jp
米田さんは現場で働く朝日新聞の一線記者だった。定年近く、身体を壊され文芸部に移られた。与えられた持ち場で何ができるか。残り少ない時間の中で何ができるか悩まれた。その中で当時まだ高校教師をしていた古田武彦氏を見いだした。古田武彦氏を世に出すこと。これが米田さんにとっての“生きる”証になった。古田武彦氏は米田さんの“生きる”証を裏切らなかった。初期三部作を書き上げ、古田史学を確立した。朝日新聞は、全面的に古田武彦氏をバックアップした。

初期三部作が出てから約10年後、歴史学会の圧力に屈し、とうとう朝日新聞は古田武彦氏から撤退し始めた。変節し始めた。米田さんの意思を継ぎ、そのために何度も涙を飲んだ記者もいたが、会社の変節を積極的に受容した記者もいた。明賀さんのように会社の変節すら分からぬ記者が大半だったかもしれない。とにかく朝日新聞社は変節した。

朝日の記者さん達。先輩を見習おう。もう一度古田武彦氏を世に送りだそう。それを生きる証にしてくれる記者は出てこないか。最近、朝日は、古田武彦氏の復刻版の一面広告も出したが、最後の焼けぼっくいにならぬよう願いたい。勉強会の案内は今も拒否。昔は講座まで開き、勉強会の案内もしていた。





6:M人 :

2011/01/28 (Fri) 20:20:45

host:*.infoweb.ne.jp
支離滅裂なんじゃなく
あなたの理解力がないだけです。

明賀さんが迷惑すればとってもいいことです?

こういう考えで書き込む人を「荒し」て言うんですよ。

ほんとに飯山さんたちより年上の方なんですか?
大人げなさ過ぎますよ。



不動先生

飯山さんの文章は添削しなくて大丈夫ですか?

チミ
ちうザマ 
こーいった
つーか  etc.


いや、大丈夫ならいいんです。
不動さん、日本語に厳しい人だから、
もしかしたら・・、と思いまして。

ま、飯山さんの言う「てげてげ」の精神に則れば、
文章の間違いなど小さな話で、言いたいことさえ伝われば
それで充分だと私は思いますが。

あの・・
「日本語能力ゼロ」の意味を教えて下さい。
私の書いた日本語、もしかして1%も伝わっていませんか?



まだ私のことを明賀氏だとお思いなんですか(笑)
私が「素晴らしい推察だ」と言ったのは皮肉です。
この馬鹿さ加減は、もはや素晴らしいとしか言いようがない。明賀氏に成り代わり、コメントさせてもらいました。
すぐに気付くと思ったんですが、まったく鈍い方ですね不動さん、あなたは。
そもそも私と明賀氏とでは、文章のスタイルも内容も、
まるで違うじゃないですか。
私の稚拙な文章を、新聞記者のそれと誤解するなんて・・
あなたは本当に愉快な方だ(笑)
5:不動明王 :

2011/01/28 (Fri) 19:56:05

host:*.plala.or.jp
古田武彦・古代史コレクション1・『「邪馬台国」はなかった』-----解読された倭人伝の謎

2010年 1 月30日 初版第1刷発行・著者 古田武彦・発行者 杉田敬三・印刷社 江戸宏介・発行所 株式会社 ミネルヴァ書房

はしがき-----復刊にあたって
 
 「読売さんはお出でになりましたか。」
 これが米田保さんの第一声だった。ところは、京都市南区の洛陽工業高校の職員室。米田さんは、朝日新聞の大阪本社学芸部の記者という肩書の、温厚な方だった。この一瞬から、わたしの本は誕生した。
 昭和四十四年九月、東大の『史学雑誌』に「邪馬壹国」が掲載された。七八の九号だ。親鸞などに関する論文はすでに何回も掲載経験があったけれど、古代史については、これがはじめてだった。中世文献の親鸞などの古写本研究の中でえた原則、それは簡単かつ明瞭だった。----「原本を勝手に直すな。」この一点である。
 「原本」とは、今自分が対面している書物だ。それが著者の自筆ではなく、何回めかの「写し本」であったにせよ、印刷本であったにせよ、研究者(学者など)が、自分の「考え」で“書き直し”てはいけない。理由は、分りきったことだ。A・B・C等の各学者が自分の気に入るように「原文面」を“直し”た、とすれば、各学者の数だけの「新たな文面」ができあがる。それらをもとに「議論」しても、無駄だ。なぜなら、各自がそれぞれの「元もと本」を作った上で、論証をすすめたのでは、「答」が合わなくて当り前だからだ。
 もちろん、確実な証拠があればいい。「この原本の、この文字はあやまりだ。こちらが正しい。」そういう完壁(かんぺき)な証拠があれば、問題ない。しかし、各自の学者のそれぞれの「判断」や一つの流派(宗派や学派など)の意見によって“直す”こと、これは「アウト」だ。わたしは中世史の写本・版本研究から、この真理を確信するに至っていた。
 「では、この邪馬壹国は大丈夫か。」
 三国志の魏志倭人伝の女王国の国名が、もとの版本(中国の十二世紀の本)においては、いずれも「邪馬壹国」だ。「邪馬台国」ではない。その事実を知ったとき、わたしは古代史の研究者たちにこの「?」をぶっつけようとした。これが「邪馬壹国」誕生の動機だったのである。

 この論文が発表されて一ケ月足らず、読売新聞の記者がわたしの学校へ来られた。近藤正さんである。『史学雑誌』の論文のコピ-をもち、わたしの自宅(向日市)で「取材」された。十月末、東京の読売新聞に、わたしの記事が大きく報道された。その十一月はじめ、米田さんの来訪となったのである。
 米田さんは「丁重」だった。しかし「執拗」だった。四、五日に一回は必ず、電話や訪問で、いったんはおことわりした、わたしの執筆をうながされたのである。それが半年以上、根気よく続けられた。
 しかし、わたしには大きな「ためらい」があった。この倭人伝では、部分部分の里程を足しても、総里程(一万二千余里)になっていない。京都から東京までの各駅間の距離を全部足しても、総距離にならない。それでは「インチキな時刻表」だ。そんなもののために、自分の貴重な、一回だけの人生を使うわけにはいかない。それが米田さんの「ねばりづよいおすすめ」に対して、首を横に振りつづけた、わたしの中の理由だった。
 それが解けた。翌年の八月、青山荘(向日市)の自宅だった。「部分の総和が、全体の数値になった」のだった。その成果が本書である。

 今ふりかえれば、この成果は限りなく大きく、遠いものだった。それは今も拡がりつづけ、日本の歴史の全体像を一新しつづけている。今回の復刊を、渾身の力をこめて上梓して下さろうとしたミネルヴァ書房社長の杉田啓三氏、編集部の田引勝二氏、営業部の神谷透氏他、皆の方々の御志に対してここに深厚の謝辞をのべさせていただきたい。
  平成二十一年十一月十五日
                  古田武彦


4:M人 :

2011/01/28 (Fri) 16:21:22

host:*.infoweb.ne.jp
まだ無人=明賀氏だとお思いなんですか?
私は確かに、過去無人と名乗りましたが、
不動さん、あなたはずいぶん勘違いされてますよ。
あなたのことを批判した人は、私の他にも数人います。
何度言っても信じてもらえませんが(笑)

ちなみに私はまだ40の小僧です。

不動さんがこのまま誤解したままですと
明賀氏にも迷惑だろうと、弁明させてもらいました。
3:不動明王 :

2011/01/28 (Fri) 06:30:03

host:*.plala.or.jp
黒澤明「生きる」(映画館主から)

黒澤明が人間の生と死の問題に真っ向から取り組んだ話題作。主人公の市民課の課長が自分の死期を悟った時、初めて“生きる”とは何かを掴んでいく物語。30年間の生ける屍のような人生に終止符を打ち、公園を作るという行動を通して“生きた”物語。

ドストエフスキーのさまざまな小説の場合と似て、人間の死という孤高の姿を鋭く描いて感動を呼ぶ。それは、とよの「課長さんも何か作ってみたら?」という一言から始まった。

かつて、この課長と同じ生き方をした朝日新聞の記者がいた。米田保さんだ。この人のおかげで「古田史学」が誕生した。朝日の記者さん達もこうした先輩を見習いなさい。退職までに何かを作り上げてください。多くの人に「売国奴」と言われない何か価値あることを退職までに作り上げてください。

2:M人 :

2011/01/28 (Fri) 01:36:00

host:*.infoweb.ne.jp
不動君、素晴らしい推察だな。
今後、年長者に対する口のきき方を考えた方がよいな。
飯山氏に返信してもらえるような、骨のある投稿を期待しているよ。

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