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北魏の馮太后の一族は、天皇家の先祖!

1:鹿之助 :

2011/01/31 (Mon) 22:41:03

host:*.plala.or.jp
飯山さん


下記の質問がありますのでよろしくお願いします。

「馮太后の母国・北燕国は現在の遼寧省にあった国で首都は柳城。柳城は今の遼寧省の朝陽市だ。百済の首都があった場所だ。遼寧省朝陽市の隣の北票県からは、北燕国の王族の墳墓が山ほどある。山全体が北燕国の王族の墳墓だ。この墳墓から出土した遺物(鮮卑族の馬の鞍)と、まったく同じモノが、驚くなかれ!応神天皇陵に隣接する誉田八幡宮の宝物館に“国宝”として収納されている。 北魏の馮太后の一族は、天皇家の先祖! ということになる。
『後漢』滅亡後の中国を再興した『北魏』の皇后が、なんと、天皇家の先祖だった!
北魏→北燕→百済→大阪羽曳野市誉田八幡宮←応神天皇陵という歴史の連環!
北魏の馮太后の一族は、天皇家の先祖だった!」

とのことですが、ウイキペディア等で判断すると、

(1)「金銅透彫鞍金具(鮮卑族の馬の鞍)は、嘉永元年(1848)8月に応神天皇陵陪塚丸山古墳から発掘されたもので、2具の鞍金具と、金銅轡鏡板、金銅花形辻金具、鹿角装刀残闕、鉄鏃、鎧等残闕などの一括品がある。金銅透彫鞍金具は竜の文様が唐草ふうに透彫りされており、それぞれの竜が中央に向かう形で連続して配列されて鞍橋の表面全体をおおっている。」
とありますが、
応神天皇時代(日本書記;310年に111歳で崩御。古事記に130歳。他の説;400年前後崩御)には馮太后(490年に49歳で死去)はまだ生存しておらず、応神天皇と同時代の北魏は初代道武帝(386年即位)であり、この金銅透彫鞍金具を北魏が倭国に贈ったとしたら道武帝と思われ、この金銅透彫鞍金具と馮太后は無関係ではないですか?

(2)馮太后は490年に49歳で死去しており、応神天皇時代(日本書記;310年に111歳で崩御。古事記に130歳。他の説;400年前後崩御)には生存しておらず、100年以上の年代差がありますが、それでは馮太后の子孫一族の誰が天皇家の先祖ですか?

(3)慕容氏(鮮卑系)の後燕(384-409)では407年にクーデターが起こり、高句麗王家の分家出身の高雲が後燕王に即位する。409年に高雲王は暗殺され、漢人将軍の馮跋(在位409-430)が北燕(409-436)を建国するが、これにより北燕王家子孫の馮太后は漢人出自となりますが、天皇家の先祖が馮太后の一族とすると、天皇家は漢人末裔または漢人と鮮卑族の末裔となりますが本当ですか?
そして、ツングース系扶余族出自の百済、漢族出自の北燕、鮮卑族の拓跋部出自の北魏は無関係ではないですか?

(4)百済(ツングース系扶余族による国家346年 ~ 660年)、北燕(中国の五胡十六国時代に鮮卑化した漢人将軍馮跋が後燕王の慕容熙を廃して建国した国。二代で北魏に滅ぼされた。407年~436年)、北魏(中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国。北燕王家子孫である文成帝の漢人皇后馮氏は、自らの孫である幼い孝文帝の摂政となって馮太后(文明太后)として実権を握っていた。386~534年)となっており、北魏→北燕→百済→という歴史連環は時代が合わないのではないですか?

そして、漢人末裔または漢人と鮮卑族の末裔の馮太后の一族が百済を簒奪したのですか?


鹿之助拝
9:飯山一郎 :

2011/02/03 (Thu) 14:12:10

host:*.ocn.ne.jp
不動明王さん
山形明郷師の生前の著書である『卑弥呼は公孫氏』とか
『邪馬台国論争終結宣言』は、慣れないヒトには文章が難解だったので、
坂口孝男さんという山形先生のお弟子さん(私も山形先生の自宅へ通い
薫陶を受けた弟子)が読みやすい日本語に“翻訳”して出版しました。
出版を待たず、山形先生は満州の遙か上空に向けて旅立たれました。
合掌。
飯山一郎。
8:サムライ:

2011/02/03 (Thu) 11:22:37

host:*.t-com.ne.jp
同じ著者による『古代史犯罪―邪馬台国論争と「バカの壁」』(三五館)も出ています。以下はアマゾンからの抜粋です。ご参考まで。


本書の特色として、次の2点を挙げる。

1
「斉明天皇陵墓に関する宮内庁の指定と事実の食い違い」
「志賀島の金印は偽物の可能性大」
最近になって明るみになる「古代史」の嘘は、
すでに15年以上前から「古代史犯罪」として指摘されていた。

(本文より)
・今日、天皇の陵墓として見なされている存在は、江戸の寛永年中、
蒲生君平によって編纂された『山陵誌』が語っているに過ぎず、
考古学上の物証は皆無である。

・志賀島の「金印」は渡来者の遺品か略奪物、もしくは“意図的に”
発見されたものであり、「倭奴国」比定には結びつかない。
「金印」が発見されたと言われるところから、「倭奴国」の存在を裏づける
遺品遺構の類は今後、二度と現れないであろう。

・「白村江の戦い」で知られている「白村江」は、学校教育の場では
韓国の「錦江」とされているが、実際は北朝鮮の「大同江」の別名である。

・百済第25代・武寧王のものとされる陵墓には遺体がない。
その他にも、現在の韓国に「百済」が存在したということを決定づけるだけの遺跡や遺物は
見つかっていない。

・高句麗の「平壌城」は、現在の北朝鮮・ピョンヤンではなく、
中国・集安に存在した。

・「百済」「高句麗」のほか「古朝鮮」「楽浪郡」などの位置は、
定説では朝鮮半島とされているが、
本来は中国・遼東半島の周辺の地域に存在した。

など、古代史を見直す“新事実”を続々と明らかにした。

2
「邪馬台国」は江戸時代から300年以上もその所在地が議論されている。
現在、主として対立しあっているのが「畿内説」「九州説」の両論であるが、
決着の兆しは見えない。なぜか?

戦前・戦中に行なわれた「古代史犯罪」――
以来、古代日本の実像は捻じ曲げられたまま今日に至っていた。

異能の文献史家が史書古典、総数289冊3668巻を渉猟の末、
結論づけた「古代日本」の真実。
7:不動明王 :

2011/02/03 (Thu) 10:51:36

host:*.plala.or.jp
山形明郷さんの『卑弥呼の正体』。初版が2010年6月2日。で、この方、2009年4月20日に亡くなっておられる。自分の本を見ずに亡くなられたんですか。
6:飯山一郎 :

2011/02/02 (Wed) 23:37:58

host:*.ocn.ne.jp
鹿之助さん
「南韓」の「韓」とは、三韓時代当時の「韓」です。
「一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓」の「韓」です。

したがって「南韓」とは…、
「韓半島=朝鮮半島」の南部ではありません。

以上のことは…、
山形明郷先生が『卑弥呼の正体』↓で徹底的に論じています。
http://grnba.com/iiyama/more13.html#ws1025

『卑弥呼の正体』を読まないことには、古代日本と古代満州の位置関係を
誤認し、混乱するばかりです。

鹿之助さん、先ずは『卑弥呼の正体』を読んでみてください。
読後、あなたの歴史観はコペルニクス的に一変します!

鹿之助さんは、まだ天動説の世界にいます。
私は山形明郷先生の指導で天動説を捨て、地動説の世界に
います。

とにかく…、
「南韓」が朝鮮半島の南部だと思い込んでいるようでは話になりません。
以上。飯山一郎。
5:鹿之助 :

2011/02/02 (Wed) 22:41:56

host:*.plala.or.jp
飯山さん


漢風諡号「●●天皇」は奈良時代に弘文天皇曽孫の淡海三船が一括撰進しており、応神天皇の名とされる「ホムダワケ」(『日本書紀』では誉田別、『古事記』では品陀和気と表記)は、実は生前に使われた実名だった、とする説があり、当時は大王(おおきみ)と呼ばれていたようです。

そして「遼寧省柳城郊外の北票県に現存する北燕の王族の墳墓にはありとあらゆる種類の墳墓、ピラミッドみたいな墳墓もあります。前方後円墳はなかったようです。」とのことから、古代天皇(大王)は前方後円墳に埋葬されており、応神天皇陵建設当時の天皇(大王)は北燕・北魏系ではありませんね。 そうすると、660年の百済滅亡時に、百済王族が難波・河内まで持参した金銅透彫鞍金具をこの応神天皇陵陪塚丸山古墳にわざわざ埋設する意味が不明ですね。

昨日も投稿した『梁書』百済伝によれば、百済は高句麗に敗れて遼西地方から、韓半島南部の地に遷都したと記録されています。
もし、百済が遼西地方から韓半島南部の地に遷都していなかったら、663年の白村江の戦いは遼西地方のどの河で行われたのですか? 

そして、わざわざ、韓半島南部の新羅と日本列島の倭国が遼西地方の河まで遠征して、唐・新羅連合軍VS百済・倭国連合軍として戦ったのですか?

『梁書』百済伝

<百濟者、其先東夷有三韓國、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。弁韓、辰韓各十二國、馬韓有五十四國。大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戸、百濟即其一也。後漸強大、兼諸小國。其國本與句驪在遼東之東、晉世句驪既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣、自置百濟郡。>

百済とは、その源流は東夷の三韓国にあり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓という。
弁韓、辰韓は各十二国、馬韓は五十四国あり。大国は万余家、小国は数千家、総計十余万戸、百済は即ちその一国なり。後に次第に強大となり、諸々の小国を併呑した。その国は、本は高句麗とともに遼東の東に在ったが、西晋の時代、高句麗が遼東を略有すると、百済もまた遼西の晋平二郡を占拠して、自ら百済郡を置いた。

<晉太元中、王須(晉書作餘暉)、義熙中、王餘映、宋元嘉中、王餘毗、並遣獻生口。餘毗死、立子慶。慶死、子牟都立。都死、立子牟太。齊永明中、除太都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王。天監元年、進太號征東將軍。尋為高句驪所破、衰弱者累年、遷居南韓地。>

東晋の太元年間(376-396年)に王の須(晋書では余暉)、義熙年間(405-418年)に王の余映、宋の元嘉年間(424-453年)には王の余毗、いずれもが奴婢を献上した。
余毗が死に子の慶が立った。慶が死に子の牟都が立った。都が死に子の牟太が立った。
斉の永明年間(483-493年)、太都督百済諸軍事、鎮東大將軍、百済王に叙した。
天監元年(502年)、太号を征東將軍に進めた。高句麗によって国を破られ、衰弱が積年に及び、南韓の地に遷都した。


鹿之助拝
4:飯山一郎 :

2011/02/02 (Wed) 13:24:25

host:*.ocn.ne.jp
鹿之助さん
どれも良い質問です!
(几帳面すぎるキライがありますが…)。
1.さて…、
応神天皇陵{陪塚}と書いてありますが、
丸山古墳は、
右の図面でも、現地に行ってみても
分かりますが、
あとから慌ただしく取って付けた墳墓で、
巨大な応神天皇陵の{陪塚}でもなく、
同時に築造されたものでもありません。
また「応神天皇陵」は命名者が憶測で命名しただけ。
応神天皇の陵墓ではありません。
また、応神天皇などという天皇も神話の中の天皇。
だいたい応神天皇の時代(3~4世紀)、日本列島
には、「天皇」は存在していません。

2.遼寧省柳城郊外の北票県に現存する墳墓には、ありとあらゆる
種類の墳墓、ピラミッドみたいな墳墓もあります。
前方後円墳はなかったようです。

3.「北燕が、北魏に馮太后を送った…」というのは、文学的な表現です。
実態は、馮太后の娘時代に父親に連れられ北魏に亡命しています。
北燕の残党が、北魏に入り込み、百済にも入りこんだ…。これを文学的
に表現すると…、
「北燕が送り込んだ馮太后が、北魏の絶頂期をつくり、後の中華帝国の
繁栄の基礎をつくった…」
となるワケです。これは『北燕』という国家を強調する書き方です。
実際、馮太后は(そして百済に入った北燕の王族も)、北燕の人間だ!
という意識(アイデンテティ)を失うはずはないのですから。

4.百済が南韓の地に遷都したという資料・文言が何処にあるのか?
これは、逆に、私が知りたいです。

5.「なんちゃらかんちゃら」は、これから行って見てきます。
やること為すこと、遅くてすんません>鹿之助殿

以上。飯山一郎。
3:鹿之助 :

2011/02/01 (Tue) 23:31:11

host:*.plala.or.jp
飯山さん


ご多忙の折り、さっそくのご回答 ありがとうございます。
下記の追加質問がありますので、よろしくお願いします。

(1)「誉田八幡に現存する「金銅透彫鞍金具」は、北魏が倭国に贈ったモノではありません。百済滅亡の際、百済の王族が難波・河内まで持参したモノです。
それから…、応神天皇のモデルらしき人物(豪族の親分)が河内近辺に生存していたことは事実でしょうが、応神天皇という天皇は、『日本書紀』に書かれた「天皇」で、「応神天皇」なる天皇が日本列島に生存していたという事実はありません!
↑このことが分からないと、日本の歴史は、『日本書紀』なる神話物語の幻想のなかで、史実と神話が混在する混乱史になります。」
とのことですが、

●本体の古墳と同時に陪塚古墳も建設するはずで、「金銅透彫鞍金具」が埋設されていた応神天皇陵陪塚丸山古墳も応神天皇陵と同時に建設されたと思われます。
そうすると、この応神天皇崩御時(日本書記;310年に111歳で崩御。古事記に130歳。他の説;400年前後崩御)に金銅透彫鞍金具が何者かによって持ち込まれたはずですが、このときに百済はまだ滅亡していません。
660年の百済滅亡時に、百済の王族が難波・河内まで持参したモノとのことですが、なぜそれを応神天皇陵陪塚丸山古墳にわざわざ埋設する必要があったのですか?

もっとも、応神天皇が日本列島に生存していなかったとするならば、応神天皇陵そのものが否定されるので何も言えなくなりますが。
鹿島昇氏によれば、応神天皇は百済19代久爾辛王(在位:420年 ~ 427年)としていますが、これが事実であれば、百済王室に伝来していた金銅透彫鞍金具を自身の古墳のみならず陪塚古墳にも埋設しているのも肯けます。 そして、本体の応神天皇陵にはもっとすごいモノが埋設されているかと思われます。

(2)「遼寧省朝陽市の隣の北票県からは、北燕国の王族の墳墓が山ほどある。山全体が北燕の王族の墳墓だ。」とのことですが、この墳墓は積石塚、円墳、前方後円墳等のどれですか?

(3)中国歴代王朝の百済伝によれば、
『梁書』百済伝
百濟者、其先東夷有三韓國、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。其國本與句驪在遼東之東、晉世句驪既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣、自置百濟郡。
天監元年、進太號征東將軍。尋為高句驪所破、衰弱者累年、遷居南韓地。

『宋書』百済伝
百濟國,本與高驪倶在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣。

『隋書』百済伝
東明之後、有仇台者、篤於仁信、始立其國于帶方故地。漢遼東太守公孫度以女妻之、漸以昌盛、為東夷強國。初以百家濟海、因號百濟。

『通典』百濟
百濟、即後漢末夫餘王尉仇台之後、語魏時百濟王上表云:「臣與高麗先出夫餘。」初以百家濟海、因號百濟。晉時句麗既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡。今柳城、北平之間。
とあり、さらに、飯山さんによれば、
「北燕は、河北・西部の平城京(今の大同市)に馮太后を送り、百済が都した柳城には馮氏一族が残り、高句麗の圧力から逃げ坩堝国家・百済に入り、百済王室にも貴族階級として入り込んだ。北燕の王族の馮氏一族こそ、北魏と百済をつなぎ結ぶ媒酌人だった…。」

とのことですが、
●「北燕は、河北・西部の平城京(今の大同市)に馮太后を送り」とのことですが、北燕は436年に滅亡し、馮太后はその後に生まれて490年に49才で死去しており、北燕は馮太后を送ることができないと思いますが?

●「馮太后の一族は百済王室にも貴族階級として入り込んだ」とのことですが、馮太后の一族は百済王室そのものには入り込んでいないのですか? 
もし、入り込んでいないならば、馮太后の一族は天皇家の先祖ではないと思いますが?
もし、入り込んでいるならば、どの百済王の王妃ですか?

●上記の中国歴代王朝の百済伝によれば、当初の百済は遼西地方にあり、高句麗によって国を破られ、南韓の地に遷都したとありますが、どの百済王時代に韓半島南部に遷都したのですか?

尚、「なんちゃら かんちゃら」に飯山理論への質問をしていますので、お時間があったらご回答をお願いします。

鹿之助拝
2:飯山一郎 :

2011/02/01 (Tue) 10:04:47

host:*.ocn.ne.jp
鹿之助さん
貴殿の上のMSGは、小生の拙論を熟読された証(あかし)。筆者としては
感謝感激の至りです。同時に、貴殿の誠実几帳面な性格が瞭然のMSG
です。早速返答させていただきます。

1.百済国
百済国は、倭人・漢人・馬韓人・扶余人・鮮卑人・拓跋人・高句麗人等々
雑多な民族・種族が同居した“坩堝(るつぼ)国家”でした。
百済国建国の地は帯方郡の故地。帯方郡は公孫氏の領地で遼東の地。
百済国の文書官僚は漢人が多数を占めていました。

2.平城京
奈良の平城京は、その命名からして北魏の平城京の模写再現です。
で、奈良の平城京を築造したのは、天武・持統・元明・元正等、百済国の
王族。
しかし、百済国と北魏は、人的・年代的・地理的に隔たりが大きく接点が
ない。とくに、奈良平城京築造の百済人と北魏は、ほとんど無関係。

3.疑問
人的・年代的・地理的に、ほとんど接点がない奈良平城京と北魏平城京。
この二都をつなぎ結ぶ仲人こそ、北燕だった。
北燕は、河北・西部の平城京(今の大同市)に馮太后を送り、百済が都
した柳城には馮氏一族が残り、高句麗の圧力から逃げ坩堝国家・百済に
入り、百済王室にも貴族階級として入り込んだ。
北燕の王族の馮氏一族こそ、北魏と百済をつなぎ結ぶ媒酌人だった…。

4.応神天皇
誉田八幡に現存する「金銅透彫鞍金具」は、北魏が倭国に贈ったモノでは
ありません。百済滅亡の際、百済の王族が難波・河内まで持参したモノです。
それから…、
応神天皇のモデルらしき人物(豪族の親分)が河内近辺に生存していた
ことは事実でしょうが、応神天皇という天皇は、『日本書紀』に書かれた
「天皇」で、「応神天皇」なる天皇が日本列島に生存していたという事実
はありません!
 ↑このことが分からないと、日本の歴史は、『日本書紀』なる神話物語
の幻想のなかで、史実と神話が混在する混乱史になります。

5.結論
奈良平城京は、北魏平城京の後継城市。二都をつないだのは北燕。
日本国は、百済国の後継国家。二国をつないだのは北燕。
北燕という“流れ星”は、成層圏で二分割。
一は北魏国に、二は百済国に落下し…、
北燕の“血”は、今も、日中の貴族階級の体内を流れている…、と。
 
                               飯山 一郎

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