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質問

1:ひまこ :

2011/03/04 (Fri) 19:46:29

host:*.docomo.ne.jp
百済人が大移動して日本列島に入り、初めて日本とし初代天皇が天武天皇で、それ以前に歴史はなかったってお話ですが‥。渡来人だらけで渡来人が日本国を国らしく発展させたのに、言語はなぜ中国語でも韓国語でもない日本語なのですか?幼稚な疑問でごめんなさい。
35: :

2011/03/09 (Wed) 12:12:06

host:*.ocn.ne.jp
飯山様

お返事ありがとうございました。

国として日本書記以外を正史と認めていないことが、飯山さんの様な方にとっても、日本書記以前の歴史が日本にはない。

という結論に至ってしまうことを、少し寂しく思います。

情報社会の現在では認めざるを得なくても、キリスト教が、イエスの誕生以前を紀元前として、それ以前の人間の存在を認めていなかった流れと同じものを感じます。


確かに、飯山さんがフォーカスを当てていらっしゃる日本書記を編纂した人達は、私がみる歴史の中でも2回目の大規模な大陸からの侵略者なので、

日本書記には日本の島以外で起こった事も入っていますが、もっといろんなものが混ざっているようですよ。

ある人物を語る時に、複数の人の特徴的な事象をいくつも取り上げたり・・・まぁ、やりたい放題にやってくれてるなぁ、という印象です。


国が認めない偽書の中には、1300年前の当時においても伝説であったと思われる、日本書記での物語のモデルらしき事象もあちこちに見受けられます。

おとぎ話的な神話ではなく、驚くほど広範囲に活発に交流されている、当時の人々のリアルな活動を読む事ができる感じで、

私自身は1万年以上にわたり平和が続いた、縄文時代が大好きです。


カタカムナだって、驚きの自然科学だと思いますし。

漢字を構成する作りから、改めて意味をかみしめ、本来の意味や、その漢字の成り立ちの奥深さを知る事はよくありますが。

仮名文字のひとつひとつの音に、この世の中の森羅万象の特性があてられていて、その物事名前を構成する音から、

そのものが持つ自然の中での特性をしみじみと体感することができるなど・・・

人類の歴史の中で、現代の人類が一番優れているなんてことは、とても思えない事が沢山あります。



誰でも全ての時代で起こった事象を追う事は不可能ですし、飯山さんはご自身が興味を持たれフォーカスをされた目線から考察をされていらっしゃる訳ですが、

それは寂しいなぁと思われる方は、私や飯山さんがリストアップされた様な古文書を研究したホームページやブログ、書籍などを是非読んでみてください。

面白いですよ♪

長文、失礼しました。
34:ひまこ :

2011/03/09 (Wed) 11:52:53

host:*.docomo.ne.jp
タロ様。ありがとうございますm(_ _)m 古代史ファンの方々ってたくさんいらっしゃるんですね〜。とてもお勉強になります。
33:タロ:

2011/03/09 (Wed) 10:38:16

host:*.ocn.ne.jp
>ひまこ さま

>言語はなぜ中国語でも韓国語でもない日本語なのですか?

この点に関しては、良い本があるのでお読みください。

[日本語の正体―倭の大王は百済語で話す 金 容雲 (著) ]

疑問が、晴れると思いますよ!

by tanzao_com
32:酒呑み :

2011/03/09 (Wed) 05:26:41

host:*.plala.or.jp
私は一定の自由があると思い込んでいるキャラクターなのかも

亀甲占が超自然的存在また自然的存在に助言を求めるものであったと思う。
死んだら今の自分の思い込みと活動は停止するが構成していた原子(もの)
は別の形で活動し始めるだろう。

日本語とは地球上の日本において自然または教育によって発生した意思なのだろうw
世界各国にはそれぞれ泉があるのだと思う、その国家を構築する創造主の意思
があるのだろう、どんなに分析しても過去は曖昧になる、曖昧になり改ざんされるのを
前提として考えていかなければ、アシカックレコードとかいうのが人間の意識の想念
のなかでつくられて、それはすべての過去を記録しているそうな。

日本人と思い、日本語を教育されたのが日本人
個人個人はオンランゲームでプレイヤーが操作しているキャラクターなのかもしれない
創造というプレイヤーが、しかもその創造プレイヤーが無数にいるとしてらwどうだろう?
31:kita :

2011/03/08 (Tue) 21:16:18

host:*.janis.or.jp
ご参考まで。

http://jiyodan.exblog.jp/7941586/
---------
まぁ、乱暴な言い方をすれば、天武天皇(大海人皇子/おおあまのみこ)以前の歴史を大幅に塗り替えて隠蔽し、
壮大な創作歴史ドラマを作り上げた事になる。

その大海人皇子(おおあまのみこ・天武天皇)が始めた壮大な隠蔽創作ドラマを、
偉大なる侵略大王・桓武天皇(第五十代)が受け継いで古事記・日本書紀の編纂
の完成を急がせ、「陰陽寮」を設置、皇統の正統性を確立する為に力を入れた。

それで、この皇統の権威が「現代にまで残るその要素の多くが、育ち始めた時代」
と言って良い。
30:ひまこ :

2011/03/08 (Tue) 17:43:47

host:*.docomo.ne.jp
『神代のタマヤ文字で書かれたタマヤ文献によると、縄文時代以前にも古くからの文明があり、さらにその前にも文明が5つあった。‥‥‥‥‥‥‥‥神武期以前は日本のことをヒミの国と言い、ヒミ(精神)の役割をする巫女をヒミコと言った。ところが、神武期に渡来の方々が大勢日本に入ってきて、ヒミコが暗殺された(三代目は生き延びてお伝えを守るため目立たぬよう受け継ぐ)。文献などは権力者に取り上げられかなり失う。明治に入ってからも2回にわたり取り上げられた。そうやって世には知られぬよう受け継がれてきた"お伝え"がある。日本にはアララキとヒミノワタルという土着の方々が暮らしていたが、アララキの末裔の方々は北海道に追いやられアイヌの方々に。ヒミノワタルは出雲王朝の関係に。百済王朝第四王子の聖徳太子は、仏教をどんどん入れて古来のものは排除し、蘇我氏を使って、古来の儀式を大切にしていた物部氏を討った。今でも日本はそのときからの流れで、政治界は中国、朝鮮半島、経済界はユダヤの系統から来ている。ユダヤは非常に古くから日本とつながりがあった。‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ウンヌンカンヌン』その他、国旗に関してやイザナミイザナギ、アマテラスオオミカミやスメラミコトのことなど様々。とても面白い内容でした。それから、今までは同じ日本人と思っていたのでとても不思議に思ったこと「東北人」と「関西方面人」がまるで外国人のくらいの違いがあるなって。渡来系と土着系?東北はアイヌ語由来の地名が多く残っているし。何代も混血になってるうちに、ウッカリ濃く現れた時代になってんじゃないの?なんて思ったりします(笑)
29:山河 :

2011/03/08 (Tue) 17:41:08

host:*.docomo.ne.jp
「第一王朝」
神武天皇は、呉人・苗族系渡来人の子孫。
沖縄・伊平屋島に生まれ、南九州・高千穂に上陸。(天孫降臨)

「第二王朝」
第一王朝は欠史八代まで続き、その後「ミマキイリヒコ」の名を持つツングース系騎馬民族の崇神天皇に取って代わられる。

「第三王朝」
第二王朝も武烈天皇で途絶え、北陸地方の豪族であった継体天皇が即位して現在にまで続く。(南北朝や明治で入れ替わっているかもしれませんが。)


他人様のブログ掲示板で奇説・珍説の披瀝、すみません。
28:煩御前 :

2011/03/08 (Tue) 16:50:43

host:*.kcn.ne.jp

 飯山先生、ヤン教授。

 ここからは、「日本の歴史は天武天皇から始まった.天武以前に歴史はなかった!」
 という歴史論を真剣に証明します。の本編を、じっくり拝聴させていただきます。

 本物の歴史を見出し、又、グルンバで本物の土地作りもやって行きましょう。

 ハングンマルチャル モッタムニダ

27:飯山一郎 :

2011/03/08 (Tue) 13:56:08

host:*.plala.or.jp
>ソウルと朝鮮半島に、邪馬台国と多くの相当発達した倭の国が存在していた
>ので、其処に文字があり、歴史書があって、現存する何らかのものが無いの
>だろうか

倭人がつくった国で有名なのは「邪馬台国」ですが,もう一つ,すごい国があり
ました.分かりますか?
ハッキリ言いましょう.聞いてビックリ,それは伽耶(加羅)国です.
韓半島(朝鮮半島)の西岸から遼東半島の南端にかけた長細く,広大な一帯
には倭人が棲んでいました.この倭人たちが韓半島南部に集結し,三韓三国
に対抗するように成立した国が伽耶国でした.
この伽耶国の歴史をはじめ,韓半島の歴史を改竄・改組しつくしたのは,日帝
時代(イルチェシデ),白鳥庫吉や津田左右吉など日本を代表する学者でした.
彼らは,倭国,伽耶,三韓(馬韓・辰韓・弁韓),三国(百済・高句麗・新羅)の
歴史を徹底的に改竄し尽くしました.
彼らの犯罪行為については,山形明郷先生の著書『古代史犯罪』や『卑弥呼
の正体』に詳しく載っています.

さて,韓半島における倭国に関する歴史書は,数多くあります.
一番有名な歴史書は『魏志倭人伝』です.
あと…,
百済三書といわれる『百済記』、『百済新撰』、『百済本記』は逸失してますが,
『三国史記』は「東洋文庫」で手に入り,私は,何年も前から「eBookJapan」の
電子書籍システムで熟読しています.
末筆ながら…,
これは凄い!という朝鮮半島の歴史書を紹介します!
じつは,『日本書紀』です!
『日本書紀』こそは,天武天皇以前の百済国と倭人の国の歴史が満載された
歴史書なのです.
『日本書紀』とは,『百済記』,『百済新撰』,『百済本記』のことなのです!
こんな簡単なことが諒解できないまま,『日本書紀』が日本列島の古代史だと
錯覚して今まできた….これが日本の歴史学です.これほど錯覚し,倒錯した
学問は世界でも稀です.こういうのを未曾有(みぞうゆう by Aso)というので
しょう.
とにかく『日本書紀』の天武以前の記述は,満州における百済の歴史と倭人
の歴史を描いたものなのです!
                              飯山一郎
26:煩御前 :

2011/03/08 (Tue) 11:57:00

host:*.kcn.ne.jp

 こんにちは。 飯山先生、ヤン先生。

 私は、先生たちの説の通り倭の王国の「邪馬台国」が現在のソウル近辺に
 あったと信じる者です。

 673年までの日本列島では、文字は有ったかもしれないが記録としての
 歴史書が無い。よって、「歴史は無い」といわれることはその通りと同意
 しています。
 
 卑弥呼の時代(200年ごろ)の倭の王国としての邪馬台国が、現在の韓国
 のソウル辺りにあったとされている飯山先生の説からすると、660年は、
 400年以上を経た、相当文化も技術も発展した国になっていたものと推察さ
 れます。倭は、唐・新羅との決戦に際し、数百隻の軍船を建造して百済との
 連合軍を結成していることも、その証明になります。

 ソウルと朝鮮半島に、邪馬台国と多くの相当発達した倭の国が存在していた
 ので、其処に文字があり、歴史書があって、現存する何らかのものが無いの
 だろうかというところが。また、私がお聞きしたい処です。

 チェソンハンニダ

25:山河 :

2011/03/08 (Tue) 11:21:23

host:*.docomo.ne.jp
大陸からの渡来と言えば、中国の正史である『晋書』や『梁書』に「倭人は自ら呉の太伯の後裔と謂う」とする記述があるそうです。
この南方、長江流域からの移民集団が稲作を伝え、弥生人の祖となったのではないでしょうか。(紀元前10世紀頃?)

その後、北方からの騎馬民族系集団が畿内以西を統一して大和を都と定め、支配者層に収まったのではないでしょうか。

そして、南方呉人集団も北方騎馬民族集団も、圧倒的多数の先住縄文系民族(アイヌ系?)の中で自らの言語を失ったのではないでしょうか。

清朝を建国した満州族が、わずか数世代で満州語を忘却して中国語しか話せなくなったように。



24:飯山一郎 :

2011/03/08 (Tue) 10:31:22

host:*.plala.or.jp
チョンマネヨ!>煩御前

>660年頃の倭に文字が無かったとは信じられません。
私は以下のように考えています.
百済到来以前の日本列島に,文字はあったかも知れないが,その確固とした
証拠が残っていない.
重要なのことは,文字で書かれた歴史書がない,ということです.
「文字で書かれた歴史書がない」 …これを「歴史がない」と表現します.
「歴史」とは,文字で書かれた歴史書がないと成立しないのです.


>謎といえば、663年以降に持ち込まれた鞍や刀が、4世紀後半頃に作られた
>東大寺山古墳の棺の副葬品として埋葬されていたこと、また、5世紀初頭とも
>言われる誉田古墳から北燕の鞍が出土していることです。
北燕の鞍は,誉田古墳本体の側につくられた「陪塚」からの出土品.
東大寺山古墳の棺の副葬品,これも後からの陪葬品です.
百済も高句麗も,大きな墓を作った初代王の周囲に「陪塚」をつくったり,後世に
なってから「陪葬品」を埋葬したりします.
私の実家の近くにある栃木・真岡の井頭遺跡には,縄文時代から5世紀までの
様々な遺物が埋葬されていました.
4世紀の古墳だとしても,後世に埋められた埋葬品が多く出てくる.これは普通
のことです.おどろくことではありません.
以上.
飯山一郎.
23:煩御前 :

2011/03/08 (Tue) 00:14:19

host:*.kcn.ne.jp

 カムサハムニダ

 金王朝の連載は、山形史観の後継者の飯山先生とヤン教授そして金虎氏の
 3名の方々でした。いつも大変楽しませていただき、感謝申し上げます。

 ここでは今、天武天皇が、歴史の有る無しの分かれ目という、大変な天王
 山に差し掛かっています。
 白村江=大同江で倭と百済の連合艦隊400隻あまりが唐と新羅の連合軍
 200隻あまりと大海戦を展開し、倭・百済連合軍が大敗北をきたした白
 村江の戦いは663年のことでした。
 660年に滅亡した百済と、この頃の倭には、歴史はあったのではないか
 と推察されます。なぜか、百済には文字があったと考えるからであること
 と、倭にも文字があったと思われるからです。数百年前の倭の卑弥呼の時
 代、「鬼道を執り行った卑弥呼は中国人であり、鬼道・天師道・太平道は、
 ****の前身で、難解な中国語で書かれ、非常に精緻な宗教哲学(神学)大
 系になっていました。つまり、中国語に精通した中国人でなければ、「鬼道」
 も「天師道」も到底習得できない神学だったのです。」と飯山先生が書い
 ておられるからです。

 それから数百年後の660年頃の倭に文字が無かったとは信じられません。

 663年白村江の戦の後、百済と倭の敗北者たちは大挙して南下、済州島経
 由で九州に上陸した。九州から大阪・難波に東征し、奈良において『日本国』
 を建国! したとは、これまで金王朝で書かれてきたことです。

 この敗北敗走した百済と倭は、あらゆるものを日本に持ち込んできたきたこと
 は、想像に難くありません。400隻もの軍船を作る技術を持っていたのですから。

 誉田の鞍も七支刀も東大寺山古墳の金象嵌の銘文のある鉄刀もこのとき持ち込
 まれたとの説は、もっともなことと納得できることです。

  謎といえば、663年以降に持ち込まれた鞍や刀が、4世紀後半頃に作られた東大
 寺山古墳の棺の副葬品として埋葬されていたこと、また、5世紀初頭とも言われる誉
 田古墳から北燕の鞍が出土していることです。

 3先生は、このことをどのようにお考えになっているのでしょうか。
 飯山先生は、誉田古墳から平城京の大和郡山まで僅か10kmといわれました。




 
22:飯山一郎 :

2011/03/07 (Mon) 22:33:56

host:*.plala.or.jp
五さん
山形明郷先生は,生前,古史古伝の研究を始めていまして,収集した史料を
解読する作業(研究)もやっておられました.
古史古伝は,
『ウエツフミ』『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』『カタカムナのウタヒ』『宮下文書』等
が有名ですが,私は山形先生から一通りの講義を受けました.
古史古伝の史料は山形先生のお家に残っているので,私も研究してみたい
とは思うのですが,記紀だけでも史料が多すぎて,手がまわりません.
なんとも歯がゆい限りです.
通説は,古史古伝は全て偽書と簡単に切り捨てていますが,『日本書紀』も
天武以前は「偽書」みたいなもんですし…,古史古伝が再評価される新資料
が出てくる可能性を私は期待しています.
                                       飯山一郎
21: :

2011/03/07 (Mon) 13:07:42

host:*.ocn.ne.jp
いつも楽しく読ませていただいてます。ありがとうございます。

天皇を神とした明治以降の日本では、日本の歴史は当時の権力者が都合良く編纂した日本書記や古事記から始まっているとされていて、
他の古文書は偽書扱いされていたり、都合の悪い神様が消されたりしていますが、
私は、記紀よりも、秀真伝(ホツマツタヱ)や、カタカムナ、宮下文書などが伝える日本の姿の方が信頼できると思っています。
富士山の噴火の歴史など、他分野の研究結果とも合致してきてますし。

お時間があれば、これらも含めた日本の歴史を探ってみてください。
20:飯山一郎 :

2011/03/07 (Mon) 07:54:11

host:*.ocn.ne.jp
いま,私は鹿児島空港にいます.
さて,2世紀,日本列島から外洋船を仕立て,玄界灘,東****海の
荒海・波濤を越え,後漢に遣使する大事業が可能なのどうかか?
8~9世紀の遣唐使の時代でさえ,唐の船を使い,自前の船では
空海・最澄のように海難・遭難しているのにです.
国家と国家の交流は,縄文人のように帆かけ丸木船で海を流され
て行く,行き当たりばったりの自然航海とわけがちがいます.
また…,
後漢に遣使するにしても,前もってアポをとる外交力や政治力,
さらに仲介者や通信インフラが必要で,このような能力を持った
「政府・政権」が,日本列島のどこにあったと言うのでしょう?

七支刀にしろ,東大寺山古墳の金象嵌の銘文のある鉄刀にしろ,
百済が日本列島に逃避してくる際に持ち込んだモノです!

以上,飛行機に乗らねばならないので,簡単ですんません.

                           飯山一郎
19:煩御前 :

2011/03/06 (Sun) 22:49:57

host:*.kcn.ne.jp

 金象嵌の銘文のある鉄刀
 銘文は「中平□年、五月丙午、造作文刀、百練清剛、上応星宿、下辟不祥」

  天理大学名誉教授 金関恕. 氏は、平成19年鬼道を事とした卑弥呼
 と題した講演において、次のように述べられています。

  卑弥呼が女王として共立されたことについて魏志倭人伝は、「其の国、
  本亦、男子を以って王と為す。住まること七、八十年、倭国乱れ、相
  攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼と曰
  う。」と述べている。この倭国の乱について『後漢書』の倭伝は、
  「桓、霊の間、倭国大いに乱れ、更も相攻伐し、歴年主無し。」と記
  している。桓帝、霊帝の間といえば、146-189年のことであった。
  『梁書』倭伝などは、倭国の乱を霊帝の光和中(178-184年)として
  いる。後者の記述をとるならば、卑弥呼共立は184、5年ごろとなるで
  あろう。私たちが1961、2年に行った奈良県東大寺山古墳の発掘調査の
  際に、棺側の粘土に封入されていた金象嵌の銘文のある鉄刀が見出され
  た。銘文は「中平□年、五月丙午、造作文刀、百練清剛、上応星宿、下
  辟不祥」と読まれる。ただし年の字と最後の4文字は推定である。中平は
  後漢霊帝の最後の年号で、年表では184-189年となっているが190年にま
  で及ぶ可能性もある。ともかく、卑弥呼共立の直後に漢に遣使してこの刀
  を授けられた蓋然性が考えられるであろう。
  (以上)

   東大寺山古墳から出土した「鉄刀」について、飯山先生はどのようにお考えでしょうか。

   卑弥呼の是非とは別に、奈良山古墳の作られた時代に、後漢霊帝の「中平」の頃の後漢と
   どのような交流があったと考えられるでしょうか。

18:飯山一郎 :

2011/03/06 (Sun) 20:40:02

host:*.ocn.ne.jp
卑弥呼の鬼道が,天師道か太平道のような初期の****だとすると…,
この初期****が纒向で行われていた可能性はゼロ! です.

また,卑弥呼と同年代に世に出た天師道や太平道ですから,卑弥呼
自身でさえ,この初期****をマスターする可能性は少ないのです.

ですから,卑弥呼の****が,同年代の纒向まで伝来してくる可能性は
ない! です.

従って,纒向の桃は,卑弥呼の時代の****とは全く無関係!です.

                          飯山一郎
17:飯山一郎 :

2011/03/06 (Sun) 20:29:52

host:*.ocn.ne.jp
桃と****について.
「桃には魔除け・悪気払いの力がある」とは,アジア全域で二千年以上
も前から言い伝えられてきた“知恵”です.

中国最古の薬書『神農本草経』には,
「桃の種子(核仁)は汚血や膿(うみ)を取り去り、百鬼を殺す」
とあります.
記紀にもイザナギが黄泉の悪鬼に桃を投げつけて助かる話があります.
こういう桃の効用が漢方医学や****に流れこんでいくワケです.
ですから,桃と****は関係あり!です.

しかし,
纒向の桃(3000個近くもあった!)は,****との関係というより…,
桃が,汚血を取り去るという効能を知った当時の国王専属の占い師
が,王族の病気治療などに服用させたものでしょう.
****の道士の遺物というより,薬師(くすし)の廃棄物でしょう.
これを「桃は****だ!卑弥呼が使った桃かも!」とNHKまでが大騒ぎ.
これだから,考古学者は詐欺師みたいなことをはじめるのです.

卑弥呼の鬼道は,「倭国大乱」をピタリ!と鎮撫する強力な****で…,
たぶん天師道か太平道(鏡と剣が神宝).祭壇も,巨大で大掛かりな
ものだった.

「居処宮室楼観城柵厳設常有人持兵守衛」(魏志倭人伝)
「居処宮室は楼観城柵厳かに設け、常に人有り,兵を持して守衛。」

纒向は,年代的には卑弥呼と重なるが,豪族土族の古墳時代の遺物
で,「倭国大乱」を迅速に鎮撫した卑弥呼の神宮の華やかさは皆無!

纒向と卑弥呼との関係を囃せば囃すほど,知的レベルが疑われる!
と,あえて言っておきます.
                                   飯山一郎
16:煩御前 :

2011/03/06 (Sun) 18:19:16

host:*.kcn.ne.jp
  縄文時代の人たちは太平洋を自由に往来していました。古代の縄文の土
 器が太平洋の各地で発見されていることでもそれを証明しています。

 天武天皇以前の日本列島に在っても、色々な文化や物の交流が盛んに行わ
 れていた事は、遺跡・古墳などの発掘調査で出土するする物(黒曜石、翡翠、
 勾玉、貝の飾りなど)を見ても明白なことです。

  桜井市教育委員会が昨年(2010年)発掘調査した纒向遺跡では、大型
 建物跡そばの穴から2千個を超す桃の種が出土しています。この桃は祭祀に
 使われていたのではないかと見られています。。
 また、纒向遺跡からは2009年、3世紀前半では最大の建物跡(東西約12.
 4メートル、南北約19.2メートル)が見つかっています。

  飯山先生にお聞きしたいことは、2~3世紀ごろの纒向に、大陸から****が伝
 来し祭祀や卜が行われていた可能性(現代韓国語でも可能性は=カノウセイと発
 音している)が有ったのか無かったのか、先生はどのようにお考えでしょうか。

15:ひまこ :

2011/03/06 (Sun) 15:35:32

host:*.docomo.ne.jp
大変ありがとうございました<(_ _)>
14:飯山一郎 :

2011/03/06 (Sun) 14:41:15

host:*.ocn.ne.jp
●渡来人来日前の「記録」が、綺麗サッパリ消されたという可能性は?
◎渡来人来日前の豪族・土族・土着の住民(原日本人)は,『日本書紀』の
 ような「歴史」を編纂する,という意識(歴史意識)がありませんでした.
 また文字もありませんでした.
 ですから,渡来人来日前の「記録」は,文字の記録としてはありません.
 考古学は,古代人の生活や富の大小を発掘資料として提示しますが…,
 「考古学は,本来は歴史の代用にはなりえません」(by 岡田英弘).

●天皇家は、なぜ様々な歴史的なことを公にしないのでしょうか。
◎天皇家は『日本書紀』『古事記』という立派な歴史書を公表しています.
 これで充分でしょう.

●歴史、存在の意味など正確に真実を知らされないのはなぜでしょう?
◎歴史、存在の意味など正確に真実を知ること.←これは不可能です.
 
●陵墓の調査?
◎陵墓の調査をしても,徹底的に発掘しても,何も分かりません!
 「箸墓古墳の年代は,卑弥呼の年代と同じだ!」
 「だから,箸墓古墳は卑弥呼の墓だ! 纒向遺跡は邪馬台国だ!」
 “邪馬台国畿内説”を信ずるあまり,こんな↑考え方をする考古学者が
 陵墓の発掘調査をしても,時間と税金の無駄です.
 “陵墓”に眠る霊の安寧のために静謐が必要! この考え方を覆す理由
 は,ない! と私は考えています.

●これはという本
◎『卑弥呼の正体』 (山形明郷著 三五館)をおすすめします.
 『古代史犯罪』 (山形明郷著 三五館)と合わせて読むと,日本の古代史
 が,東アジアの古代史と連環して明確に理解できるようになります.
 
                                    飯山一郎
13:ひまこ :

2011/03/06 (Sun) 12:29:27

host:*.docomo.ne.jp
すいません、何せ極薄で極狭の好奇心でしかない私の質問ですが‥‥‥。政治や権力からの歴史とは捉えていませんでした。もっと広い意味で思っていました。渡来人来日前の「記録」は、綺麗サッパリ消されたという可能性はないのでしょうか?なにせ跡形も匂いもなければ、それでなくとも嘘八百、権力者のご都合第一がまかり通る世の中ですから、あとから渡来人が大勢きて自分達の住み良い国をつくろうとしたなら、可能性としてはあるのではないでしょうか?そして、天皇家は、なぜ様々な歴史的なことを公にしないのでしょうか。これほど天皇家の方々に、旗を振ったり頭を下げたり勲章を頂いたり、貸切にしたり税金を使って頂いたりしているのに、歴史、存在の意味など正確に真実を知らされないのはなぜでしょう?陵墓の調査もです。世の中の誰かがアッチコッチの国の文献を参考にしたところで、結局「そのような考え方」でしかない感じです。ものすんご〜〜〜〜く不思議です。すいません、深いところをキチンと研究なさっている方には鼻クソにもならない疑問で(笑)ゴメンナサイ。こんな私にも理解できそうな、これはという本などもしあれば、教えて下さい。
12:飯山一郎 :

2011/03/06 (Sun) 11:14:54

host:*.ocn.ne.jp
ヤン教授も私も,「歴史」という言葉を厳格に使っています.
以下,それを説明します.

渡来人(百済人)が大勢日本に入ってくる前…,
日本列島には,豪族・土族,また土着した大勢の住民が棲んでいました.
彼らの族長は,死後に備えて巨大な古墳を築造しました.
この事業は,巨大な富と権力となければ出来ません.
こうした,巨大な富と権力をもった種族が,日本列島の処々に点在して
いました.

渡来人(百済人)は,日本列島に上陸後,列島土着の豪族・土族たちを
「土蜘蛛」の,「長髄彦(ながすねひこ」の,「八掬脛(やつかはぎ)」のと
呼び,これら土着の土族たちと戦い,あるいは吸収・同化・同盟しました.
百済勢(軍)といち早く同盟関係に入った種族は,阿多隼人,大隅隼人
などと尊称・「隼人」がつけられました.

百済が日本列島に渡来する前の,豪族・土族達の長い長い「歴史」は,
「古墳時代」と呼ばれます.
「古墳時代」の前にも,日本列島には,「弥生時代」,「縄文時代」.この
前の「石器時代」.この遙か前の「超古代文明」.…と,沢山の歴史段階
がありました.これは考古学が明確にしました.

しかし! です.
「古墳時代」の「歴史」は…,
「茶道の歴史」「本の歴史」というときの「歴史」と同じで,「時間の流れ」
でしかありません.

「歴史」とは,岡田英弘の言葉を借りれば…,
1.「書かれた記録のないところに歴史はありえない」
2.「考古学は,本来は歴史の代用にはなりえない」
3.「歴史の本質は,政治史・権力史である」
…ということです.

したがって…,
百済人が渡来する以前の日本列島には,書かれた記録がありません
から,「歴史はない」という表現になるのです.

「古代人の生活の流れ」はあったが,これは「歴史」ではないのです.

末筆ですが,
「歴史」という言葉の定義を,厳格にしてしまって申し訳ありませんでした.
 
                                   飯山一郎

11:ななし :

2011/03/06 (Sun) 01:16:14

host:*.comcast.net
飯山先生、ひまこ様、

古代だけではなく超古代にまでさかのぼるとさらに面白くなるのではないですか。有名な彗星探索家の木内鶴彦先生
のお話はとても興味深いですよ。超古代にも日本の歴史はあったと思いますよ。
10:ひまこ :

2011/03/06 (Sun) 00:38:04

host:*.docomo.ne.jp
飯山様はじめ、皆様ご回答ありがとうございました。様々な考え方があるのですね。以前、"古事記や神話の時代よりも古い文献に記された歴史の真実"という記事を読み、それから日本の歴史に興味を持ち色々本を読み漁りましたが、私は、渡来人が大勢日本に入ってくる前にも、やはり歴史はあったのではないかと思っています。様々な考えがあって興味津々な日本の歴史。タイムマシーンでもあればよいのに(笑)☆☆☆☆☆飯山様。ブログ毎日とても楽しみです。ありがとうございました。
9:飯山一郎 :

2011/03/05 (Sat) 19:29:18

host:*.ocn.ne.jp
sirouさん

たいへん有意義なご指摘です↓
>そもそも「アルタイ語族」というものが存在するかどうかで、議論が割れている。

従来…,
トルコ語,ウイグル語,ウズベク語,カザフ語,日本語,朝鮮語,満州語,タミル語,
モンゴル語,フィンランド語,ハンガリー語,エラム語,シュメール語,等々,多数の
言語が「アルタイ語族」と分類されてきました.

ところが,
西欧の比較言語学等の学問からみると,「アルタイ語族」という分類法には重大な
“欠陥”があるのです.
それは,
様々な「アルタイ語族」に共通する「基礎語彙」がほとんどないことです.
これでは,「アルタイ語族」と一括りにできない.大分類ができないのです.
それで,厳格な比較言語学者は,
「そもそも“アルタイ語族”というものは存在しない!」
などと言い出します.

しかし私などは,西欧の学問体系とは別の分類法をもっています.
私は,「ウラル・アルタイ語族」のほかに,「ツラン」という概念をもっています.
「ツラン」とは,
1.ウラル・アルタイ(膠着語)系 2.アニミズム・シャーマン系
この2条件を大きく満たす種族・民族・集団.

さて…,
「ツラン」は,ウラル・アルタイからユーラシアだけでなく,全世界に広がりました.
この時…,
移動先の種族・民族・集団の母語=基本語彙を吸収し,同化します.
しかし…,
言語の背骨(バックボーン)=膠着語文法=語尾変化語法が残す! これこそ
が「ツラン語族」の特徴です.

たとえば,日本語と韓国語は,膠着語で,SVO型文法ですが,「基礎語彙」は
重なりません.
ですから…,
「日本語と韓国語は別の言語」という学者もいれば,「日本語と韓国語は同祖」
というヒトもいるワケです.

ようするに…,
結論は,sirouさんが言われた,
「日本語は、BodyとHeartは南島語から…,
HeadとSpiritはアルタイ語から形成された複合言語である」
ということになります.

そして…,
日本語の「アルタイ語化」は,天武天皇の御代から開始されるのです.
 
                                        飯山一郎
8:sirou :

2011/03/05 (Sat) 14:32:30

host:*.infoweb.ne.jp

日本語がアルタイ語族に属する言語であるという仮説を証明しようとする試みが、19世紀から内外の比較言語学者たちによって繰り返されてきたが、それに成功したものはいなかった。

そもそも「アルタイ語族」というものが存在するかどうかで、議論が割れている。


そのうえで、日本語の成立は、列島に居住していた南島語を話す縄文人と、大陸北部から来たツングース・満州語に近い言語を持つ民族の移動で、和語が生まれた。


 pana pira-ki tunba-me sora-yu tonbumu
 花  開き  ツバメは  空を飛ぶ

 語源:
 pana → *bunga   南島祖語 「花」
 pira → *bilah   古代インドネシア語 「薄片」
 sora → *sula   モンゴル満州語 「空虚」
 
など。


日本語は、BodyとHeartは南島語から、HeadとSpiritはアルタイ語から形成された複合言語である。
7:Samurai:

2011/03/05 (Sat) 14:14:43

host:*.t-com.ne.jp
それは良かったです。今度は電話でなく、台北、鹿児島、上海あたりで仙人(藤原さん)と直にお会いできると良いですね。

それにしても、フェイスブック、ツィッター、mixi、Skypeと、飯山さんはネット界で八面六臂のご活躍…、とてもついて行けましぇん!
6:飯山一郎 :

2011/03/05 (Sat) 11:41:39

host:*.ocn.ne.jp
サムライさん 見てますか?
先ほど,私,藤原肇先生と電話でお話しました.
なんと20分間も話しました! 感激の対話でした.
以上,ご報告まで.(飯山一郎)
5:飯山一郎 :

2011/03/05 (Sat) 10:18:17

host:*.ocn.ne.jp
katerkuhさん
裴世清の倭国訪問の報告は次のようです (隋書・東夷伝).

   当時(610年前後)のヤマトの王は…,
   阿毎多利思比孤(アマタラシヒコ)という阿輩雞弥(オホキミ).

この裴世清の報告は重大です.
裴世清がヤマトに滞在していた610年前後の時期は,『日本書紀』に
よると推古天皇(女帝)の治世で聖徳太子が摂政でした.

ところが,裴世清は推古天皇(女帝)にも聖徳太子にも会ってない.
裴世清がヤマトであったのは,アマタラシヒコという男王だった.

これは,
裴世清(隋書・東夷伝)が,『日本書紀』の記述を否定している!
ということです.

私は,裴世清(隋書・東夷伝)のほうが正しいと思います.
通説も,最近は,「聖徳太子は存在せず!」となってます.

ようするに…,
天武天皇以前に,推古天皇や聖徳太子は,存在しなかったのです!

「大海人皇子と額田王と天智の大らかな恋愛」.これも『日本書紀』が
描いた物語です.この「恋愛」が存在したとしても,その舞台は,広大な
満州の何処かの物語です.

『日本書紀』の記述は,真偽(史実と神話)がゴチャ混ぜです.
中国の正史のように厳重なチェックは入っていません.

とにかく!
『日本書紀』の呪縛(岡田英弘)から開放されないと…,
歴史の真実(史実)は見えてきません!
                                飯山一郎
4:katerkuh :

2011/03/05 (Sat) 03:11:31

host:*.t-dialin.net
飯山先生のツングースからの流れは興味深く読ませていただいてましたが、今回のヤン先生の天武天皇以前に日本に歴史はない!ちゅう話はどうなのでしょう。持統天皇の父は天智天皇ですし、天智が存在しないとあの有名な大海人皇子と額田王と天智の大らかな恋愛はどうなってしまうのか、それより何より推古天皇の時代の聖徳太子やら隋まで行って帰ってきた小野妹子やら一緒にやってきたハイ世清の立場はありませんでしょ?隋書にも記載があるのですし。
3:酒呑み :

2011/03/05 (Sat) 00:12:22

host:*.plala.or.jp
こんばんわ、呑んでいます、不適切な文章を書いていた場合はそちらで削除してくださいね。

過去の歴史は参考になりますが、それは学んだ範囲です、たとえば昨日の食事はなんだったろう
というレベルです、それが他の人の食事だとますますわからなくなります、でも人は記録によって
その過去の食事を書き残す、残念なことに過去は完了した現実ですが、記録上書き換え可能な
未来なのですw

過去も現在も未来もあなたの中にあります、問題は何を目指すかだと思いますが、
こころというのはコロコロかわるからこころというらしい。
参考リンクを貼っておきますね

http://www.geocities.jp/hiromorimizuno/

右翼

教育と思い込みで歴史はつくられていくのです、生まれた時は真っ白に近い素朴な状態も
生きてきた中でいろんなものに染まっていくものなのです、それが生まれて来てしまった
命ある心ある霊魂ある者の宿命なのです、なぜならこの世界を創造している力が
わたくしたち、あらゆる存在をそのようなものとして設計しているからです!

2:飯山一郎 :

2011/03/04 (Fri) 22:09:14

host:*.ocn.ne.jp
先ず…、
日本語とは何か? という問題をたてましょう。
答えは…、
日本語は、ウラル・アルタイ語系で、ツングース・扶余族百済系の膠着言語です。
つまり、
日本語の根幹には、ウラル・アルタイ系の膠着言語である百済語があるのです。

韓国では…、
韓国語は新羅語、日本語は百済語がもとになっているニダ! これが常識です。
ところが…、
百済語には、大問題があって…、
古代胡語系の殷や、鮮卑語系の北魏や、漢語系の北燕、倭語系の邪馬台国、
ここにツングース語系の扶余が、『馬韓』でゴチャ混ぜになって新しい百済語が
できて、このゴチャゴチャの百済語が日本列島に入ってくるワケです。

ただし…、
この新百済語は柔軟性(包容力)があって、新規参入外国語を同化する能力が
高いのです。
(この言語としての包容力は、『馬韓』の時代に身につきました。)
ですから、百済語は、先ず九州に入り、筑紫→日向→大隅と南下するに従って
南方系九州土着語を取り入れながら同化していきます。
こうして九州の地で、新百済語は、新々百済語に変身するワケです。

そうして、百済人たちは、大隅の志布志から海路(高知沖)、難波に“東征”する
のです。
難波の地で、現地の母語を吸収・同化しながら、新・新々百済語になります。
これが、7世紀・新日本の日本語です。

それから、もうひとつ。
百済人が日本列島に渡来して来るまで、日本列島には、統一された日本標準語
などはありませんでした。
当時の博多人と、薩摩にいた原住民は会話が通じませんでしたし、難波に行くと
また別の言語が話されていました。
ようするに、7世紀までの日本列島には、歴史も言語もなかったのです!
日本の歴史=『日本書紀』をつくったように、日本語をつくったのも百済なのです。
…ちうこってす>ひまこ様

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