★ 掲示板:『放知技(ほうちぎ)』 ★彡
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2018年元旦,金正恩,五輪外交を開始!平昌五輪を大成功に導く.習近平が金正恩を超国賓待遇!金正恩が米朝首脳会談を提案,これをトランプが即断で受諾!金正恩,板門店から韓国に入り,南北首脳会談.大成功!トランプが5月中の米朝首脳会談を示唆.マティス国防長官が「駐韓米軍の撤退」を示唆!…まさしく激動の2018年だ.この激動の切っ掛けをつくり,激動をリードしてきたのは,金正恩(34)だ!今後も金正恩は世界をリードする!目が離せない.深い考察と議論が必要だ.
(M部長・飯山一郎)
放知技の書斎
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1:猿都瑠
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2019/03/29 (Fri) 15:15:25
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情報時代と言えど、読書の重要性は増す一方。
古典と呼ばれる書籍群から現在に至るまで、この書籍は必読、こんな書籍を読みました、読んでます。
この書籍はお薦めですとか何でもE~です。
他のスレと重複しても構いませんので、皆さんどうぞ。
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147:亀さん:
2020/10/29 (Thu) 03:50:33
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>>146
川口慧海の名を目にして、思わず筆を執りました。
講談社学術文庫が出した川口慧海の筆による、『チベット旅行記』(一)~(五)と『第二回チベット旅行記』、昭和61年版を拙宅の書架に所蔵しています。だから、35年前に入手したということになるので、小生が三十代の頃ということになりますが、当時は独身だったこともあり、会社を辞めて中国やインドを数ヶ月かけ、十代の頃に実践した放浪の旅を再び試みようと、漠然と考えていた時期と重なることから、多分、そのあたりの旅行情報の収集ため、購入したのだろうと思います。結局は実現に至りませんでしたが・・・
当時の小生が川口慧海に抱いていたイメージは、純粋な心から仏教の原典を手に入れる為、遙かなるチベットに赴いた求道者、といった程度のものでした。しかし、その後に至って栗原茂さんとの出会いがあり、川口慧海と大谷光瑞の繋がりを知るに及んで、川口慧海には公にはなっていない、チベット行きの〝真の狙い〟があったのではと睨み、あれこれ個人で調べたものです。そして、今では仄かに川口慧海のチベット行きの目的が分かるようになりました。以下、大谷光瑞について言及した、栗原茂さんや落合完爾さんらの原稿の一部を数本転載しますので、堺のキャラ三郎さんの今後の川口慧海研究に、役立てていただければ幸いです。
亀さん@人生は冥土までの暇潰し
最初に、栗原稿。
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●日野氏庶流の日野強情報
通説に従えば、日野氏は中臣鎌足系(なかとみのかまたり)の藤原北家流・真夏(まか)が祖といわれ、孫の家宗(いえむね)が山城国宇治郡(京都市伏見区)日野に法界寺(ほっかいじ)(真言宗)を創設、のち資業(すけなり)が薬師堂を建立して日野氏を称したという。また代々(だいだい)が儒道と歌道で朝廷に仕えており、室町時代に将軍家と結縁(けちえん)が成り家格の安定を図るも、将軍八代目義政(よしまさ)の室(しつ)となる富子(とみこ)が応仁(おうにん)の乱を引き起こす火種(ひだね)を生むともいう。即ち富子が産する義尚(よしなお)を次期将軍にすべく、山名(やまな)氏を後見役として応仁の乱に及ぶ原因とされる話のことだ。富子は専横を極め政治に介入のうえ、京七口に(ななつくち)関所を設け税を課したり、高利貸し、米相場にも手を出すなど、市場混乱を招く張本人と見なされるが、たとい悪女としても同類の責任転嫁は政治の常である。こんな物語をして歴史が組み立てられるのも、氏姓鑑識が粗末ゆえ起こる現象であり、大江山に根ざす大本教団の講社(こうしゃ)を何ゆえ綾部(あやべ)に据(す)えたのかを、氏姓鑑識がないまま、個人情報の糸を手繰(たぐ)れば歴史が千切れるのも当たり前である。
本稿第二回項(通巻二七九号)に記す通り、日野強が新疆を(しんきょう)目指しハミ、トルファンを経て省都(しょうと)ウルムチに到着、このとき清国の文武(ぶんぶ)諸官と漢詩交流を重ね、南州少佐と(なんしゅうしょうさ)呼ばれ大歓迎され、新疆の巡撫(じゅんぶ)や布政使(ふせいし)ほか、赴任のため途次(とじ)滞在中の伊犁(いり)将軍などに、特段の厚遇を得るのも、姓((かばね)家業)に根ざす遺訓として、儒道歌道に通じたからで、家訓に学ぶ伝承あればこその恵みなのである。また日野は宗教観として、信仰の伝染および宗教心の遺伝まで踏み込み「信仰も宗教心も、人から人へと、系統的経路を通り伝わるは免れないため、その祖先とか人種により、また智識(ちしき)程度の如何(いかん)により、崇拝(すうはい)する信奉(しんぽう)する、宗教の同一ならざるは、自然の勢いなり」と結ぶのも宜(むべ)なるかなである。さらに日野は浄土真宗本願寺法主(ほっす)に昇る大谷光瑞(こうずい)一〇歳年少を通じて、特命遂行に特段の協力させるが、これぞ日野が少尉任官後三年間(一八八九~九二)の消息不明事由と重なる。
大谷家には天皇歴代の皇女(おうじょ)が降嫁(こうか)しており、その経歴は省くも、大谷光瑞(一八七六~一九四八)が日野と出会うのは、嘉仁(よしひと)親王(大正天皇)宝寿一一年に当たり、光瑞一四歳のちロンドン留学(一八九九~一九〇二)一〇年前に当たる。当時二四歳の日野は、神仏分離令、寺社領没収などの後遺症が残るなか、愛媛県出身で軍閥(ぐんばつ)と無縁ゆえ、京都在留の歴代天皇家側辺(そくへん)および大江山霊媒衆の手配により、主に軍事訓練の移動を繰り返し、京を中心に二六歳までの三年間を過ごし、丸亀の歩兵第一二連隊附で年末(ねんまつ)中尉に進級するのは二七歳である。日野は既に年少六歳の出口清吉とも、出会いを重ねており、日清戦争勃発年(一八九四)においては、釜山(ぷさん)に上陸後各地を転戦して、講和後は大連湾(だいれんわん)から乗船して混成第九旅団の編成地に帰還した。清吉も台湾へ出征その帰還船内で病死、全身包帯巻き姿で海中に葬られたとする偽装も、本稿第一回の冒頭に記している。以後、清吉の消息は北清(ほくしん)事変(一九〇〇)の殊勲者として、名を改め京都日出(ひので)新聞に報じられるが、参謀本部出仕(しゅっし)の日野が対露戦略に則り、現地赴任(一九〇二)後一〇年を特務で働くことも、既に記しており、日露講和後(一九〇五)の両者は、日野が功(こう)四級金鶏(きんけい)勲章、清吉が再び京都日出新聞に軍事探偵として報じられる。
皇紀二五六六年(一九〇六)日野は「その筋…」より、新疆視察の特命が降ると、身の回りを備えるや直ちに北京(ぺきん)入り、以後は『伊犁紀行』に詳しいが、本稿も概略を抜粋して紙面を費やした。日野本に清吉は登場しないが、監修の岡田は日野が綾部に帰住(きじゅう)するのは同二五七九年(一九一九)と記し、大本教の幹部となり、翌年五六歳の長逝と書き記して日野の個人情報を結んでいる。同二五八四年(一九二四)に王仁三郎は朝鮮経由で奉天(ほうてん)に到着する。大正天皇宝寿四六年であり、前年には関東大震災が生じており、皇太子殿下の裕仁(ひろひと)親王(昭和天皇)が摂政宮を果たしておられた。同二五四〇年(一八八〇)日野一四歳のとき、京都堀川御所に貴子(うづみこ)が降誕(こうたん)のち辰吉郎(たつきちろう)と称(たた)えられる。日野が伊犁紀行を終えて東京に戻るのは、同二五六七年(一九〇七)四二歳のとき、辰吉郎二八歳であり、清朝は袁世凱(えんせいがい)が担(にな)うも同二五七二年(一九一二)には、宣統帝(せんとうてい)退位の幕引きがある。ヨーロッパ発の津波は、****大陸と朝鮮半島に及ぶほど大きくなり、日清戦争、日露戦争を誘引(ゆういん)して日本に雪崩(なだ)れ込む亡命勢力も、人知では計測不能の土石流(どせきりゅう)に巻き込まれる。
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次に落合稿。
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幕末現象と南朝復元
弘化元(一八四四)年八月四日、オランダ使節コープスが長崎に来たり、開国を勧告するオランダ国王ウィレムⅡ世の親書を幕府に呈しますと、長崎奉行が応接して勧告を拒絶します。
これを機に、欧州各国の船舶が来航して頻りに開国を勧め、条約の締結を請いますが、これには欧州王室連合の強い意思を感じます。
折しも、弘化三(一八四六)年二月十三日に即位された孝明天皇は、性急な条約締結と開港が、既に片鱗を見せ始めていた欧州帝国主義に付け入る隙を与えることを憂慮され、国内に潜在する矛盾・対立の解消こそ先決と考えられました。早晩の開国を不可避と覚られましたが、開国に際する西欧勢力の侵入を憂慮し、そうこつ忽滑を戒めるために幕閣を攘夷に誘導しようとしました。これを「臆病」「頑迷」と酷評する史家たちは、皮相を見ただけの一知半解に過ぎません。
孝明と岩倉は外国と国交を結ぶに際して、相手国が国家で元首を立ててくる以上、わが国も元首を立てる必要があるが、それは幕府でなく皇室でなければならない、と考えていました。安政大獄の前に、岩倉が同輩の公卿に宛てた書簡には、そのように明記しています。それだけではなく、天皇の使節を相手国の首都に派遣して元首に謁見し、国情を観察してから、初めて国交を議するべきである、と考えていました。これがまともな見識と云うものです。
その前に必要なのは、国内における対立の解消です。国際情勢上の必然として開国を見据えた孝明は、国民間の間隙を見つけて国内対立に付け入ろうと狙う欧州帝国主義の常道に対処して、国民融和のために南朝復元を企図し、進んで皇統の二元化と、将来における南北および表裏皇統の統合を目指したと考えられます。
孝明天皇即位の弘化三年(一八四六)以後、次々に具現する幕末現象をもたらしたのは開国攘夷・勤皇佐幕・皇統南北論の各次元における対立ですが、その核心は南朝復元論でした。これには日本人の民族的源流が関係しています
日本人の三大源流は、縄文人(海民橘氏・平家)と弥生人(倭人鈴木氏・地下藤原氏)および古墳人(いわゆる所謂正統清和源氏・北方騎馬系はちまん八幡族)の三大族種ですが、族種間で混血も進んできました。したがって、普段は列島で融和親近して平和に暮らしていますが、数世紀に一度の社会変動に際するや、挙げて族種対立の乱戦に陥ることが国史の常例であります。
その典型的な例が、壬申の乱と南北朝の乱ですが、治承寿永の乱・応仁の乱・関ヶ原の乱などにも族種抗争の要素が少なからず潜んでいます。これらの武力抗争の本質はズバリ海民と騎馬民のあつれき軋轢であって、人口の大半を成す倭人系の農耕民は概ね傍観者です。この厳然たる事実を学校史学が徹底的に無視するのは、単一民族思想に拘泥し過ぎるからで、その根底には誤った皇国史観があります。
西南雄藩に広がる楠公顕彰の動きが、知識階級下層部からの差別解消・処遇改善の要求ばかりでなく、そうせい蒼生心理に伏流する南朝復元願望のけんげん顕現と覚られた処に、孝明天皇の國體天皇としてのシャーマン神格性があります。孝明天皇は、南朝復元がそうせい蒼生に潜在する歴史感情を浄化し、民族意識を高めて帝国主義に対抗する力を生じさせると考えたのです。
シャーマン神格天皇がみそぎはらい禊祓を行う聖地は富士山を東に見る立地が要件と聞きましたが、その真意を私(落合)はまだ会得しておりません。ともかく開国に伴う江戸遷都を予見した孝明は、ここに「堀川政略」を断行します。すなわち慶応二(一八六六)年十二月二十五日、自ら崩御を装い睦仁親王ら家族と女官を連れて、堀川御所に隠れました。
一方、その直前に皇太子睦仁親王と入れ替ったおおむろとらの大室寅之すけ祐は、慶応三(一八六七)年一月九日に践祚して皇位を継承しましたが、即位の礼は遅れ、慶応四(一八六八)年八月二十七日にこれを執行し、十月十三日に東京城に入って東京奠都を宣言しました。
極秘に行われた皇統の交代は、世間には片鱗も漏れませんが、並行して南朝の先帝・大塔宮などの皇子に加えて、楠木正成・北畠親房ら南朝忠臣を祀る神社が、各地に続々と創建されたのを眼にした蒼生の胸には、何かしら響くものがあったことと思われます。
ともかく、之を以て南朝復元は成功しました。
以後は、東京皇室が政体天皇として政務を執る一方で、裏方の国家シャーマンに任じた京都皇統は、欧州王室連合からの皇室に対する要望に対応するため、皇室外交と国際金融を担いました。前者は欧州王室連合との折衝と王族間縁組への参加、後者は金融ワンワールドとの折衝を意味し、誕生したばかりの南朝皇室と攘夷原理主義者の革新公卿、及び薩長下級武士を中核とする明治政府では到底こなせない難題で、京都皇統以外には担えるものがいなかったのです。
京都皇統は明治中期から、現実政治の必要に迫られて国内政治の誘導、国内経済の金融支援、大陸政策の立案推進など国策の根幹を担います。これを捌いたのは孝明の皇孫堀川辰吉郎で、明治十三年に堀川御所に生まれて七歳の時に博多に移り、以後は玄洋社の訓育を受けました。天与の資質のうえに、杉山茂丸・大谷光瑞・渋沢栄一・勝海舟らの有能な側近に恵まれたため、その事績は余りにも巨大でありますが、側近が宜しく隠蔽しましたから、世人は其の存在にすら気が付いていません。
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最後に落合稿+亀さん稿(最初の行のみ)。
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現在、落合氏が『NEW LEADER』に連載中の記事は、今年(平成22年7月号)から第三部に入った。それは、堀川辰吉郎を頂点とする京都皇統を本邦で初めて公開してからである。第一部、第二部、第三部の違いについて、落合氏は以下のように述べる。
…1年の休稿期間の後、第一部で得られた史的知見の相互間の有機的連関の追究に取りかかった。第一部の各個別知見は、より上位の史的地検の集合たる「歴史実体」に属するので、アーサー・ケストラーのいわゆるホロン構造である。歴史実体の解明は、まず個別知見相互の有機的関連性を明らめる作業から始めなければならない。即ち現在連載中の第二部あるが、この作業の基本は一に懸かって洞察である。
洞察によって個別知見相互の有機的関連を仮定し、之を用いて公開資料や口碑伝聞を検証すると、今まで見えなかったものが見えてくる。つまり、同じ史科であっても旧来の解釈と異なる意味が観えてくるが、そうなると、荒唐無稽に見えた口碑伝聞にも実質が備わって来て、貴重な資料性が保証されるのである…
……中略……
…明治以後のわが国体は、明治天皇と京都皇統の二元方式によって運用された。京都皇統こそ薩摩ワンワールドと杉山茂丸、玄洋社などを下部集合として含む史的知見の上位集合である。薩摩ワンワールドは在英海洋勢力の一角を占めるが、その本質は国策遂行団体で、英国筋からの伝達は杉山茂丸を通じていた。茂丸が薩摩ワンワールドの誘導者になったのは、辰吉郎に最も近かったからである。京都皇統に属する下位集合として、他には大谷光瑞師が率いた京都社寺勢力、孝明帝と同系の鷹司家を初めとする旧堂上の一部、光格帝の生母大江巌代(大鉄屋岩室氏)に由来する丹波大江山衆(穴太上田氏・大本教)、公武合体を進めた会津松平氏・紀州徳川氏が存在した。その実態と活動を追究するのが、今後始まる本稿第三部の作業である…
(『NEW LEADER』2010年06月号)
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