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金正恩2018年元旦,金正恩,五輪外交を開始!平昌五輪を大成功に導く.習近平が金正恩を超国賓待遇!金正恩が米朝首脳会談を提案,これをトランプが即断で受諾!金正恩,板門店から韓国に入り,南北首脳会談.大成功!トランプが5月中の米朝首脳会談を示唆.マティス国防長官が「駐韓米軍の撤退」を示唆!…まさしく激動の2018年だ.この激動の切っ掛けをつくり,激動をリードしてきたのは,金正恩(34)だ!今後も金正恩は世界をリードする!目が離せない.深い考察と議論が必要だ.(M部長・飯山一郎)
金正恩の真実 金王朝の“深い謎”ビビンバ!北朝鮮!
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【!!必読!!】『日本』という国名の秘密new  『放知技』データベース


先読み上手なオッサンたちの闘論スレ -35-

1:飯山一郎 :

2018/06/30 (Sat) 15:48:21

host:*.dion.ne.jp
4.27南北会談,6.12米朝会談で,極東アジアの“一触即発状況”は見事に終焉! トランプは公約した非軍事主義(世界中からの米軍撤退)とアメリカ・ファースト(インフラ整備と内需経済)への階段を上り始めた.今後の懸案は「中国の膨張主義」だが,「一帯一路構想」の不評と尻つぼみを米国ネオコン軍産が奇貨として妄動しそうである.さぁ,世界はどうなる?そして日本は?
218:亀さん:

2018/07/15 (Sun) 15:54:17

host:*.t-com.ne.jp
>>211

mespesadoさん、

いゃー、今日は暑い! よほど、スッポンぽんになって、太陽凝視をしようと思ったんだけど、近所に若い娘っ子がアチコチにいることだし、飯山さんや堺のスケベー…、ではなくてYさんのように、人前ですっぽんぽんになる度胸がないつうか、悟りの境地に達していないもんで、仕方なく今日も、仕事部屋でシコシコと仕事をしていましたwww

さて、ねずさんの祖国日本を憂う心情、小生にも伝わってきます。このあたり、「大和心の回帰」のブログオーナーさんとも共通する点です。しかし、飯山さんや堺のおっさんの投稿を日々目にしている身として、なんだかなぁと思ってしまう記事も時々あります。

たとえば「大和心の回帰」の場合、小生は同ブログを全体的に高く評価しているものの、少々気に食わない記事も時折あります。たとえば、長島昭久を高評価している以下の記事…

__________
選挙後、支持率低迷の一途をたどる希望の党にあって、日本政界をあるべき姿に構築すべく孤軍奮闘している議員の一人である、党政調会長に就任した長島昭久氏である
http://www.yamatogocoro.com/article/455196851.html
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> 更に具体的な記事

一方、ねずさんこと小名木善行氏の場合、もっとヒドイ…。

mespesadoさんに、「更に具体的な記事」とプッシュされた亀さんですが、ここ最近同氏のブログを訪問したことはなく、「アレ?」と思ってから大分時間が経過しているので、具体的にどの記事かと謂われても思い出せませんでした。そこで、ココでは二本のカテゴリのURLの紹介に止めます。

■北朝鮮関連
http://nezu621.blog7.fc2blog.us/blog-category-28.html

【亀さん評】小名木の北朝鮮関連の記事は、トランプと金正恩によるシンガポールでの首脳会談前とはいえ、北朝鮮を巡る中国+ロシアvs.アメリカ+日本による綱引きという構図は無論のこと、さらには横田めぐみさんの件や、タングステン水爆、昨年の11月29日が最後のミサイル****となった経緯、その後の元旦の新年の辞、そしてシンガポール首脳会談といった、一連の米朝関係の経緯というか舞台裏に関して、同氏の記事で優れたものは見当たりません。このあたり、飯山さんや堺のおっさんの投稿を読んでいる、放知技の読者でもないかぎり、致し方ないことだと思っています。

さらにヒドイのが以下のカテゴリ…

■田母神俊雄関連
http://nezu621.blog7.fc2blog.us/blog-category-39.html

【亀さん評】飯山さんの田母神に関する、過去のHP記事を読んでいる読者であれば、すでに田母神氏の正体はお見通し…。ところが、小名木氏の場合…

__________
田母神論文が、異端だなんて言う奴ぁ、日本人じゃねぇぇぇぇぇっ!!
http://nezu621.blog7.fc2blog.us/blog-entry-401.html
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「エ~~ッ」つうところでしょう。

結論として、国際政治の深読みができないというのが、小生の小名木氏に対する印象であり、思想的云々以前の話となります。



>>210

かんたさん、ありがとうございます。

> 同じ脱藩人として、今後とも良き情報交換

こちらこそ、よろしくお願いいたします。取り敢えず、情報交換の開始は、今月下旬にブエノスアイレスに飛びますので、当地で落ち着いてからにさせてください。現在は出発前に片付けなければならない仕事で大童、未だに旅の準備もできていない有様です。まぁ、酒に呑まれている自分が悪いんですがwww(爆)

ところで、かんたさんが音楽家という点に大変興味を抱いています。

Jinmoさんという音楽家をご存知でしようか。小生も校正のお手伝いをしている世界戦略情報誌『みち』に、Jinmoさんの記事が毎号にわたり寄稿されており、その都度、深い感銘を受けます。以下は前号の記事で、かんたさんとも深い関係のある、コンサートホールについての同氏の一考察です。Jinmoさんのコンサートホール記事、どう思われたのか、後でお聞かせください。



亀さん@人生は冥土までの暇潰し


寄絃乃儀 19 アセンション・スペクタクルから寄絃乃儀へ 9  JINMO

●さて、このような実験をしたことがある。まず平均律による旋律と和声を二〇人程の音楽通に聴かせ、感想を求める。全員、日常慣れ親しんでいるものであるから、当然、何の違和感も感じない。次にそれを純正律でもって聴かせる。「非常に美しい」、「天使の歌声のようだ」などと、全員が「あぁ」という感嘆を交えた感想を洩らした。しばらく純正律を味わってもらった後、再び平均律を聴かせる。すると今度は、また全員が「濁ったような、調子っぱずれな感じで、変に感じる」と言ったのだ。
 また、こういう話を聞いたことがある。昔、西洋に派遣された使節団が、初めて西洋音楽を聴いた時の感想だ。迎え入れた側としては、遠い異文化の東洋人に、自らの高度な文化をデモンストレーションするのが目的だから、もっとも訓練されたオーケストラによる演奏を聴かせたに違いない。しかし使節団は、そのあまりの無様さ、滑稽さに、演奏中笑いを堪えるのに必死だったと報告書に記した。同様に、まだ未開の地であったアフリカに西洋人が踏み込み、原住民に初めて西洋音楽を聴かせた時、彼らは笑い出したという話も聞いた。
 私はこれらの反応を引き出したのは、文化としての楽曲表現や和声の違いではなく、西洋楽器が発していた平均律に拠るのだと考えている。ある対象を笑うということ自体、きちんとそれを理解し、基準となる正常なるものとの比較が行なわれた結果であるからだ。すでに平均律に馴致されている西洋人には、なぜ彼らが笑い出すのか理解は難しかっただろうが、逆に使節団や原住民にしてみたら、なぜそんな調子っぱずれな、あえて言うならば音痴な演奏を、大まじめに聴かされるのか、理解し難かったに違いない。
●巷間にすっかり定着した「癒し系」なる言葉がいつ頃から使われだしたのか定かではないが、おそらく七〇年代頃に民族音楽、古楽教会音楽、ブルガリアン・ボイスなど、純正律による表現がわが国の音楽産業に取り込まれた頃ではあるまいか。
「癒し」とはホメオスタシス。言い得て妙なるコピー。平均律に慣れた現代のわれわれは、それらを古代エジプト人のように「魂の薬」と感じたのだ。老若男女問わず、誰もが美しいと感慨する、ちょうど先の二〇人の音楽愛好家のように(しかし今日ではこの言葉も拡大解釈され、ほとんど「刺激的ではない系」と換言すべき程までに拡大されてしまった)。
 近似値では到達し得ない圧倒的美。後天的に学習し、共通の文化圏(地域と時代)でのみ通用するエンコードとデコードを必要とする記号化した「文化」とは違い、生物としてのわれわれに実際的な影響を及ぼす物理現象としての音楽……、それを「未記号化音楽」と私は呼ぶ。
●倍音という物理現象を元にした純正律から、利便性を優先させた平均律への移行を、「コンピュータのOSが移行したようなもの」と比喩した知人がいる。彼にしてみれば、「それほど大きな違い」という表現なのだろうが、私にはもっと重大な違いの認識を要求すべきことと思われる。
「OSの種類が違う」、つまり「旋律の各構成音程が異なる」という違いは本質ではなく、瑣末なものだ。実は「物理現象に触れる」という「体験」が、利便性を目的としてエンコードされ、その体験談を説明した言葉のように「記号」化されたという、音楽史における重大なパラダイムシフトなのだ。いうなれば前者は「生理的音楽体験」、後者は「文化的音楽鑑賞」となるだろう。そして後者は、デコード可能な共通の文化背景を持つ者に「理解」されることで、初めて開花する冷凍花。解凍後、それなりの美しさは見せるだろうが、野に咲く生花に比すべきはずもない。江戸時代の西洋視察団の逸話、アフリカ原住民の逸話、これらはデコードの不可能性がもたらした悲喜劇だった。
 確かにわれわれのすばらしい聴覚認識は、平均律が示すところの、倍音周波数の近似値からでも、それなりに音楽による情緒のホメオスタシスを実現させる。それだけに近似値ではなくJust Tuneされたものの前には、もはや抵抗不可能な情緒状態の転導操作が実現する。
●音楽による情緒状態の転導操作は個体に対しても顕著に有効であるから、これを群衆に対して行なえば集団ヒステリー効果もあいまって、更に劇的な操作が可能になる。古来、宗教儀式、政治活動(戦場での士気高揚も含めて)の場において、音楽が不可欠であったのは、単に文化的背景によるのではなく、生理・心理学的な実効力によるのだ。
 中世、音楽は魔力を持つと認識されていた。宗教の教義で、政治的に立法で、演奏や歌唱を禁じられた楽曲が多々存在した。強力な実効力ゆえのことだろう。
 ほんの数百年前までは、現実に神仏が音楽の力によって、群衆の眼前に出現していたと私は確信する。
 J・S・バッハの名曲「Das Wohltemperierte Klavier」が「平均律クラヴィーア曲集」と誤訳されたために、すでにバッハの時代(一八世紀)には平均律が使用されていたと思われてきたが、大きな誤りである。近年の研究では、平均律が普及したのは一九世紀に入ってからであるとされる。
●私がそのように確信するのは、一九九七年のセルギエフポサードでの体験からだ。セルギエフポサード(旧ザゴルスク)は、モスクワの北北東七〇キロに位置し、中部ロシア平原の丘に建つ人口一二万の歴史ある宗教都市。一三四〇年代にラドネジの聖セルギイ (一三二一~一三九一)が創建した至聖三者聖セルギイ修道院から発達し、一六世紀に建てられた城壁に囲まれている。この修道院は、 モンゴル人支配時代を通じてロシアの道徳的・国家的再生運動の中心であり、現在は巡礼地として崇拝の対象となっている。その中央の大聖堂で、「強烈な純正律の祈り」を聴いたことが、今の私に大きな影響を及ぼしている。
 大音量の自然倍音の共鳴というクールな物理現象。あのドーム状構造物は巨大な頭蓋骨デザインだった。内部におけるその共鳴と残響はまるで脳内のそれのようだ。脳が直接に痺れるような現実の体験。記号化した音楽が捨て去ってしまった、強烈な音の実効力との対面。果たして集まった人々は涙を流し、そして祭壇に上る。蓋の空いた棺桶。そして、くちづけ。そう、そこには一三九一年以来、現在もなお現実の「聖セルギイ」がミイラ化しながら横になっているのだ。真に力を持つのは、思い込みやハッタリやオカルティズムの対極にある、「現実」だ。
 その音響効果の絶大さ。加えて司祭が絶えず振りまく香の煙。薄明かりの揺らめく蝋燭。多重反射をくりかえす金銀の宗教設備。聴覚を主としつつ五感全てが、現実感を喪失させ、脳内のイメージの拡大を促進していく。 宗教によっては儀式に幻覚効果を持つアルカロイドの使用すら珍しくない。 そうした中で、司祭が暗示力を持つ強いメッセージでもって集う人々のイメージを誘導するなら、サイケデリックなステンド・グラスから差し込む陽光の中に、脳が望む神の姿を見出すのは十分にあり得る。神仏の招聘は常に祈りのみならず、音楽と共にあるのだ。
●ロシアの宗教都市セルギエフポサードでの体験以来、私はコンサート・ツアーの合間に何とか時間を都合し、各地の大聖堂を積極的に訪ねては、その中でパンパンと手を叩く習慣がついた。残響音を聴くためだ。その長さ、密度、音色。楽器でもない、ただ手を叩いただけの音であるのに、にんまりと笑みが浮かんでしまう程に美しい。
 通常のコンサートホールの数倍にも及ぶ異常に長い残響時間、これにより多重で複雑な反射波は互いに絡み合ってモジュレーション効果を産み、整数倍の周波数を持つ新たな自然倍音を生成する。楽器、あるいは歌手などの発音体が少数であっても、まるで大編成であるかのような、分厚く神々しくさえもある音響となる。大聖堂自体が楽器としてデザインされているといっても過言ではなかろう。最も原始的な宗教施設は、洞窟であったという。照明の問題、換気の問題など、一見、大人数の集会には不向きに思えるが、その欠点を上回る音響効果を当時の人々は求めたのであろうと、私は考える。古今東西、残響による自然倍音生成は生理的快感の重要な要素なのだ。それは風呂場で鼻歌を歌う、あるいはやたら深いリバーブで悦に入ってカラオケを楽しむ諸氏が、充分なる経験則として実感されているはずだ。
●このように楽器としてデザインされた大聖堂で、要となる発音体。これ自体もまた、最初から如何に豊潤な倍音を含んでいるかを基準に用意される。もはや建築物に比する程の規模の巨大複雑構造により、アコースティック楽器の中では比類無き音域と音量を持つだけでなく、今日のオーバードライブ・トーンに類似した倍音ニュアンスを発するパイプ・オルガン(現在の形となったのは一七世紀だが、原型は紀元前三世紀頃からといわれ、教会内に設置されだしたのは八世紀)、そして非常なる高音域から低音域までをカバーし、最も原始的でありながら今日の先端技術をもってしても代替の効かぬ、大編成合唱団などがそれだ。
 特に大編成合唱団の効果は絶大だ。原始教会においては当然、老若男女の混合編成で、重要な高次倍音域に関わるソプラノは女性や少年少女が受け持っていた。天使の歌声である。だが、中世に至り、「女性は教会で沈黙すべし」という聖パウロの禁忌を曲解したローマ・カトリックは愚かしくも女性の歌唱を禁止してしまう。 合唱団は男性のみで組織されることになった。これにより、以前のような豊潤な自然倍音効果は喪失される。
 信徒会衆に対して、その情緒状態の転導操作という実効力を持たねばならない教会音楽にとって、これは致命的とすらいえる事態だ。この解決にカウンターテナー(男声ファルセット)や大人数の少年合唱団(ボーイ・ソプラノ)が使用されたが、おそらくそこには以前のような歓喜のエクスタシー、天国の実現、そして神の臨在は起こり得なかったろうと推察する。かくして「カストラート」の登場の日まで、教会音楽における無明の時代が続く。

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