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金正恩の真実 金王朝の“深い謎”ビビンバ!北朝鮮!
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1:(削除) :

2021/09/04 (Sat) 09:10:32

host:*.kcn.ne.jp
(投稿者により削除されました)
104:mespesado :

2022/01/10 (Mon) 10:35:43

host:*.eonet.ne.jp

>>103

 そうですね。「好き嫌いで判断すると間違う」ということが確かだとして

も、「だから好き嫌いは悪だ」と、すぐ無意識に「外側の価値観」であると

ころの「善悪判断」に結び付けてしまって「だから好き嫌いをなくすように

しよう!」となっちゃうのがこの「3次元世界」の人間の悲しい性(さが)

ですね。

 「好き嫌い」は「感情」であり、その「感情」が「思考」を支配している。

だから、一見「好き嫌いとは無関係に思考しているつもり」であっても、実

はそうではない。↑このカラクリというかシステムに気付くことが実は一番

大事なのだと思います。

 ところが、ここで、また「どうせ思考は感情に支配されていて感情の方が

上位なのだから思考は感情に劣る」などと、これまた「外側の価値観」であ

るところの「優劣判断」に結び付けてしまって「だから思考ではなくて感情

で判断するのが正しい」とかなっちゃう…。うかうかしていると、このよう

に、いつでもドツボに嵌ってしまうんですね。

 「思考」は、まさに知的生命体である人間が天から与えてもらった大切な

機能なんだから、これを有効活用しない手はない。だけれど、この大事なツ

ールが、よりプリミティブに発達した機能である「感情」の支配下にあるこ

とを「善悪とか優劣の価値判断なしに」自覚する。すると、「この有用な思

考をコントロールしているのが感情なんだから、その感情を素直に感じられ

るようにしよう」という発想になる。そして


>>100

>>93のmespesadさんの書かれたのを読んで、
> そこに上げられたリンク先の方が書かれてる感情、って本来なら感性或
> いは感覚って言う方が理解出来るかなと思いました。
> 感性や感覚と、感情という言葉も微妙に意味が違うって事と、愛と愛情
> の違いと、もしかして似てるかも知れないと思いちょっと書いてみます。


 そのとおりで、>>93 のリンク先である「丸顔おばさん」の記事で気にな

るのは「感情」と「感覚」の区別があいまいなこと。「感覚」というのは、

文字通り「感じていることを『覚(さと)る』」ことで、自分のセンサー

にかかることですよね。そこには何かを「掴んでいる」感じがある。「怒

り」とか「悲しみ」とか「喜び」のような「感情」とは全然違う別物。

 それと、似たような話が「意識」と「思考」の違い。「意識」とは何か。

よく「カラ返事」とか「人の話を聞いてない」とかいうことがあるけれど、

これは「意識」を「相手の話」に向けていないときに起きる。逆に、「真

剣に聞いている」ときというのは、それが自覚的であれ無自覚であれ「何

か」をある「対象」に向けている。その「何か」が「意識」ですね。そこ

には「思考」のような、何か頭をCPUのようにガチャガチャ働かせてい

るような感じは無い。

 「感覚」も「意識」も無自覚なケースが多いけれども、これらを「研ぎ

澄ませる」というと大げさだけれど、まあ「発達」させることによって、

「感情にやられてしまう」のを防ぐことができる。もちろん、その「感情」

に支配された「思考」に支配されることも。

 そして最後に「愛」と「愛情」の違い。愛というと、真っ先に「恋愛」

が頭に浮かぶけれど、これは「愛」ではない。しかも「愛情」でもない。

「執着」と言った方が正確かもしれない。だって、誰かに恋愛感情が芽生

えるのは、相手のキャラクター次第。つまり「条件付き」だから。本当の

「愛」というのは条件が付かない。キリストは「汝の敵を愛せ」と言った

ようだけれど、これを真に理解するのは結構難しくて、他人に「愛」を向

けるのって、自分は向けているような気がしているけれども実は向けてい

なかった、なんてことは何度もある。実は「他人」を愛するにはまず「自

分」を「愛」せてないとできない。でも自分を「愛」する、というのもこ

れまた広く誤解されていて、いわゆる「ナルシスト」とは違う。「自分の

好きなところも嫌いなところもすべて自分であることを悟り、自分のすべ

てを自分で受け入れ、受容する」ということ。そして、この「受け入れる」

というのも、これまた誤解されていて、「受け入れる」と「正当化する」

は違う。自分で自分の気に入らないいわゆる「欠点」があるとき、それを

直さずにそのまま放置していいんだ、文句あっか!と思う、というのは、

これは自己の「受容」ではなくて、単なる「開き直り」だ。これを区別す

るには、自分の「欠点」だと思っていることを他人に指摘されたときの態

度でわかる。「何だと!悪かったな。だけどお前だって…」とか「あーい

やだ。どうして自分っていつもこうなんだろう」とかいう反応をするとき

は、前者は「開き直り」、後者は「委縮」であって、全然「受容」してい

ない証拠だ。「あ、はい、そうですね、すいません」とか「そうですが、

何か?」となれば真に受け入れてることになるんだけれど、ここでまた問

題が。これらのセリフを「口で言う」だけなら簡単なのだけれど、問題は、

それが「本当にホンネ」なのかどうか。よく口先だけ謝っているというこ

とがあるけれど、それでは受容していることにならない。「すいません」

と相手に謝っているように自分では思っても、それがホンネでないときは、

必ず態度に出る。「オレは悪くない。でも仕方ないから謝っとくか」とい

う気持ちになっているのが態度に出てるハズ。また、「それが何か?」の

方は、ホンネで気にしてない場合は態度が「自然」なのに対し、そうでな

いときは、何か食って掛かるような態度になっているハズ。自分で自分の

欠点と認識されていることを真に受け入れているときは、心から相手に謝

れるし、心から気にならなくなる。実はエラそうにこんなことをホザいて

いるけれども、私自身は全然この境地まで達していないんですけどね。

 で、自分を真に「受け入れる」ことができるようになったとき、他人の

ことも、真に「受け入れる」ことができるようになる。で。、実はこれこ

そが真の「愛」だ、ということになるのだけれど、この掲示板での「いざ

こざ」を見ていると、その中に飛び込んでいる自分も含めて、まだまだ悟

りに達していないな~と思う今日この頃ですw。

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